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いなぶら………………伊豆田方郡・遠州浜松辺・武蔵野一帯の地
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此だけの貧弱な材料からでも、総括することのできるのは、各地の称呼の中には sus, nih 又は hot の語根を含むものゝ、最著しいことである。ほと[#「ほと」に傍線]は、即ほづみ[#「ほづみ」に傍線]のみ[#「み」に傍線]を落したものと見ることが出来る。
私どもの考へでは、今が稲むら生活の零落の底では無いか、と思はれる。雪国ならともかくも、場処ふさげの藁を納屋に蔵ひ込むよりは、凡、入用の分だけを取り入れた残りは、田の畔に積んで置くといふ、単に、都合上から始まつた風習に過ぎぬものと見くびられ、野鼠の隠れ里を供給するに甘んじてゐる様に見える。告朔の※[#「饋」の「貴」に代えて「氣」、第4水準2−92−67]羊は、何れは亡びて行くべき宿世を負うて居る。而も、古くして尚、痕を曳くのは、本の意の忘却せられて後、新しい利用の逋《ニ》げ路を開くゆとり[#「ゆとり」に傍点]のあるものであつた為である。
蓋、水口祭《ミナクチマツ》りに招ぎ降した田の神は、秋の収穫の後、復更に、此を喚び迎へこれまでの労を犒うて、来年までは騰つて居て貰はねばならぬ。田の神上げもせずに、打ち棄てゝ置けば、直に、禍津日の本性を発揮せられたであらう。尤、次年の植ゑ附けまで山に還つて山の神となつてゐられる分は、差支へも無い理であるが、此は一旦|標山《シメヤマ》に請ひ降した神が、更に平地の招代に牽かれ依るといふ思想の記念であるらしい。併し、其は山近い里の事で、山に遥かな平野の中の村々では、如何なる方法を採るかゞ考へものである。一郷一村の行事となれば、壇も飾り、梵天塚も築くであらうが、軒別に、さうした大為事は出来よう筈がない。而も其が、毎年の行事である。至極手軽な標山を拵へる方法が、講ぜられねばならぬ。私は、稲むらが此為に作り始められたものだ、と信じたい。
まづ、最初に、nih 一類の語から考へて見る。第一に思ひ当るのは、丹生《ニフ》である。「丹生のまそほの色に出でゝ」などいふ歌もあるが、此は略、万葉人の採り試みた民間用語に相違ない様である。山中の神に丹生神の多いのは、必しも、其出自が一処の丹生といふ地に在つた為と言はれぬとすれば、此を逆に、山中の丹生なる地が神降臨の場所であつた、とも言ひ得られる。江戸時代
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