情の※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《ヤ》き栗・ゆで栗を傍《カタ》山の岨《そへ》に埋めて、わが身栄ゆるものならば、此栗生え出る様に、とうけひ[#「うけひ」に傍線]給うたら、栗が生え出した。朝廷へ献る田原の栗は、即其なごりで、其時の痕が微かに残つて居る。天皇は其から志摩に出、美濃に奔られて、墨股《スノマタ》川で、不破明神の化身なる布洗ひ女に救はれ給うた(宇治拾遺)。
日吉山王の舟祭りに、膳所に渡御なると、粟の飯を献ることは名高い話であるが、其由来を此民譚では、若に粟飯を与へた田畑之助が、粟津の人であつた為、其が為来《シキタ》りになつたのだとも言ふ。処が、此が今《モ》一つ、田中明神なる恒世の話の変形である上に、此膳所田中[#(ノ)]社は、一名田畑の社として、田畑之助を祀つた(輿地誌略)ものと言ひ、又天武流離の節同様に、粟津の里人が献つたのだ(輿地誌略)との伝へもある。
思ふに、山城綴喜郡も田原迄入り込むと、近江の栗太郡に接してゐるから、田原栗の伝説が、瀬田川を溯つて近江へ入つたものか、又、田原(粟津)志摩とさすらひ[#「さすらひ」に傍線]の道筋の譚として説いて居たのか、いづれかで
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