簡の差こそあれ、皆口を揃へて、同じ筋を語つてゐるが、其中で「厳神抄」の伝へが、愛護民譚の一部に最よく似てゐる。
此神、天智の御代に、坂本へ影向せられたが、大津の八柳で疲れて、徒《カチ》あるきもむつかしくなつた。其で、大津西浦の田中[#(ノ)]恒世の釣り舟に便乗して、志賀[#(ノ)]唐崎に着かれた。船の中で恒世が、自分用意の粟の飯を捧げた。唐崎の琴[#(ノ)]御館[#(ノ)]宇志丸の家で、我は神明だ、と名のられたが、しるし[#「しるし」に傍線]を見せ給へと言はれたので、御船の儘で松の梢に上られた(ち)。
恒世は田中[#(ノ)]明神、宇志丸は山末[#(ノ)]明神となつた(耀天記・山王利生記参照)とある外、耀天記には、神の杖が化生した(ち′[#「ち′」は縦中横])と言ふ形を伝へて居る。(ち)と(ち′[#「ち′」は縦中横])とは合体して、一つのうけひ[#「うけひ」に傍線]の形式になつてくるのであるが、(か)は唐崎着岸までの苦労が其に当る。
尚此(ち)と(か)を備へた同種の民譚の中、一番形式の単純なと思はれるのは、浄見原天皇の流離譚であらう。天皇は吉野を出て宇治の奥、田原[#(ノ)]里で、里人の
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