まといの話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)萱振《カヤブキ》合戦

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)摂津豊能郡|熊野田《クマンダ》村

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「巾+正」、219−16]幟

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)めい/\
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     一 のぼり[#「のぼり」に傍線]といふもの

中頃文事にふつゝかであつた武家は、黙つて色々な為事をして置いた。為に、多くの田舎侍の間に、自然に進化して来た事柄は、其固定した時や語原さへ、定かならぬが多い。然るに、軍学者一流の事始めを説きたがるてあひに、其がある時、ある一人のだし抜けの思ひつきによつて、今のまゝの姿をして現れた、ときめられ勝ちであつた。其話に年月日が備はつて居れば居る程、聴き手は咄し手を信用して、互に印判明白に動かぬ物、と認めて来た。明敏な読者は、追ひ書きの日附けが確かなれば確かなるだけ、真実とは、ともすれば遠のきがちになつて居る、様々な場合を想ひ起されるであらう。
康正二年の萱振《カヤブキ》合戦に、敵《カタキ》どうしに分れた両畠山、旗の色同じくて、敵御方の分ちのつきかねる処から、政長方で幟をつけたのが、本朝幟の始め(南朝紀伝)と言ふ伝へなども、信ずべくば、此頃が略、後世の幟の完成した時期、と言ふ点だけである。
のぼりはた袖[#「のぼりはた袖」に傍線](相国寺塔建立記)と言ふ語《ことば》が、つゆ紐の孔を乳《チ》にした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。千幾百年前の死語の語原が、明らかに辿られて、さのみ遠くない武家の為事に到つては、語の意義さへおぼつかないのは、嘘の様な事実で、兼ねて時代の新古ばかりを目安にして、外に山と積まれた原因を考へに置かずに、語原論の値打ちをきめてかゝらうとする常識家に向けての、よい見せしめである。
のぼる[#「のぼる」に傍線]は、上へ向けての行進動作であつて、高く飜ると言ふ内容を決して、持つ事は出来ぬ。若し「幟」を「上り」だなど言ふ説を信じて居る方があつたら、「はためく」からの「旗」だと言ふのと一類の、お手軽流儀だ、と考へ直されたい。遥か後に、そらのぼり[#「そらのぼり」に傍線]を立てゝ、陣備へをしたなすみ[#「なすみ」に傍線]松合戦の記録(大友興廃記)があるから、空への上り[#「空への上り」に傍線]等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風の吹《フ》き貫《ヌ》き・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、復《マタ》の御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方の方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。

     二 まとい[#「まとい」に傍線]の意義

おなじ様な事は、まとい[#「まとい」に傍線]の上にもある。火消しのまとい[#「まとい」に傍線]ばかりを知つた人は、とかく纏《マトヒ》の字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、※[#「巾+正」、219−16]幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつく的《マト》の方面から、探りをおろして見る必要があらう。
的《マト》と言ふ語は、いくは[#「いくは」に傍線]などゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとお[#「まとお」に傍線]と言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居《マトヰ》は一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまとい[#「まとい」に傍線]である、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、六十四組の町火消しに供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾《バレン》つき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。
徳川氏が天下をとつた時分が、まとい[#「まとい」に傍線]の衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし[#「だし」に傍線](竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止め[#「竿止め」に傍線]に菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印《ウマジルシ》としてゐるが、事実は、そんなに簡単に片づく物ではなかつた様である。此は、馬印がまとい[#「まとい」に傍線]の勢力を奪うたので、段々まとい[#「まとい」に傍線]が忘れられて来た為である。
右に馬印《ウマジルシ》とした物を纏と記した上に、吹き流し[#「吹き流し」に傍線]を吹き貫き[#「吹き貫き」に傍線]にしたゞけの物を馬印として並べてゐる「弘前軍符」の類もある。此は、まとい[#「まとい」に傍線]が忘れられる前に、まづ馬印と混同して、馬印は栄えて行き、まとい[#「まとい」に傍線]は家によつては、形式の少し変つたさし物[#「さし物」に傍線]の名に、固定して残つたものと見るべきであらう。大様《オホヤウ》は、徳川の初めにはまとい[#「まとい」に傍線]・馬印をごつちやにし、其中頃には、ばれん[#「ばれん」に傍線]が馬印の、又の名と言ふ風になつて来たのだ。
思ふに、自身・自分・自身さし物(幣束から旗さし物へ参照)など言ふのが、まとい[#「まとい」に傍線]の後の名として、一般に通用したもので、勝手に従うては、家々でまとい[#「まとい」に傍線]と言ふ事もあつたのであらう。「三才図会」のまとい[#「まとい」に傍線]の絵なども、今の人の考へる纏[#「纏」に傍線]などゝは全く違うた、三段笠を貫いた棒の図が出してある。此は「甲陽軍鑑」の笠の小まとい[#「笠の小まとい」に傍線]で見ても知れる様に、まとい[#「まとい」に傍線]の中で、類の多い物であつたと見える。
北条家の大道寺氏の小まとい[#「小まとい」に傍線]は、九つ提燈であつた(甲陽軍鑑)。又家康が義直に与へた大纏は、朱の大四半[#「大四半」に傍線]大幅掛に白い葵の丸を書き、頼宣のは、朱の六幅の四半であつて、めい/\其外に、馬印をも貰ひ受けて居る(大阪軍記)。又、同じ書物にある八田・菅沼等の人々の天王寺で拾うた円居は、井桁の紋の茜の四半で、別に馬印もあつたのである。

     三 まとい[#「まとい」に傍線]とばれん[#「ばれん」に傍線]と

諸将から仰望せられた清正のまとい[#「まとい」に傍線]は、だし[#「だし」に傍線]に銀金具のばりん[#「ばりん」に傍線]と思はれるものがついてゐる。馬印は別に、白地に朱題目を書いた物である(清正行状記)。此まとい[#「まとい」に傍線]、一にばれん[#「ばれん」に傍線]と言はれたさし物[#「さし物」に傍線]の動きが、敵御方の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らせた処から、指し物にばれん[#「ばれん」に傍線]と言ふ一類が、岐れ出たものと思はれる。
一体ばれん[#「ばれん」に傍線]は、後に変化を遂げた形から類推して、葉蘭《バラン》の形だとする説もある様であるが、此は疑ひなく、ばりん[#「ばりん」に傍線]である。ねぢあやめ[#「ねぢあやめ」に傍線]とも言ふ鳶尾草《イチハツ》に似た馬藺《バリン》を形つた金具のだし[#「だし」に傍線]をつけたからの名であらう。棕梠の紋所との形似を思はせる此だし[#「だし」に傍線]は「輪貫《ワヌ》き」を中心にして、風車の様に、四方へ丸形に拡つて居る。唐冠兜の後立て[#「後立て」に傍線]も、此と一類の物であらう。前にも述べた通り、神事のさし物[#「さし物」に傍線]には、薄の外に荻・かりやす[#「かりやす」に傍線]をも用ゐるから、植物学的の分類に疎かつた古人が、菰・菖蒲・鳶尾草などを同類と見て、戦場の笠じるし[#「笠じるし」に傍線]・さし物[#「さし物」に傍線]にも用ゐた名残りだといふ事も出来よう。
ばれん[#「ばれん」に傍線]のだし[#「だし」に傍線]をつけたまとい[#「まとい」に傍線]が名を得た処から、ばれん[#「ばれん」に傍線]は此さし物[#「さし物」に傍線]に欠く事の出来ぬ要素と、考へられる様になつたらしい。火消しの纏を馬簾《バレン》といふ訣は、簾の字相応に四方へ垂れた吹き貫き[#「吹き貫き」に傍線]の旗の手の様なものから出たと言ふが、此をばれん[#「ばれん」に傍線]と言ふ事、東京ばかりではなく、大阪でもある事であるが、実は「竿止め」につけたばりん[#「ばりん」に傍線]の、吹き貫き[#「吹き貫き」に傍線]と融合を遂げた物と見るべきであらう。摂津豊能郡|熊野田《クマンダ》村の祭りのたて物なるがく[#「がく」に傍線]のだし[#「だし」に傍線]に吹き貫き[#「吹き貫き」に傍線]形ではなく、四方へ放射したぶりき[#「ぶりき」に傍線]作りのばらん[#「ばらん」に傍線]と言ふ物がつく。此処にもばりん[#「ばりん」に傍線]とだし[#「だし」に傍線]の関係は見えて居る。金紋葵のだし[#「だし」に傍線]に、緋のばれん[#「ばれん」に傍線]をつけた家康の馬印は、後世のまとい[#「まとい」に傍線]の手本とも言ふべき物である。此頃既に、まとい[#「まとい」に傍線]・馬印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまとい[#「まとい」に傍線]とも言うた事があつたであらう。ばれん[#「ばれん」に傍線]・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。
まとい[#「まとい」に傍線]の要素たるばれん[#「ばれん」に傍線]や、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈|彼《かの》自身たて物[#「自身たて物」に傍線]と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。蒲生家のさし物[#「さし物」に傍線]が、熊の棒[#「熊の棒」に傍線](蒲生軍記)或は熊の毛の棒[#「熊の毛の棒」に傍線](古戦録)と言ふ名で、其猛獣の皮が捲いてあつたといふ事実は、愈すたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]一類の物として、まとい[#「まとい」に傍線]・自身たて物[#「自身たて物」に傍線]の源流らしいものがあつた事を、仄かして見せてゐるのではなからうか。やまとたける[#「やまとたける」に傍線]等の八尋桙・丈部の杖からまとい[#「まとい」に傍線]に至る間に、歴史の表に顕れずして過ぎた年月があまりに長く、又可なり縁遠く見える。併し、幣束に似たはた[#「はた」に傍線]が、唐土風な幡旗の陰に、僅かに俤を止めてゐた間に、戦場の桙は、都と交渉少い道のはて/\に竄《かく》れて、武士の世になると共に、又其姿を顕したが、長い韜晦の間に、見かはすばかり変つた姿になつて、其或物は家と縁遠い神々・精霊を竿頭に斎《イハ》ひこめて居なかつたとも限らぬ。
清正の様に、強力無双の人で無ければ、振られ(清正記)ない、大纏が出来てからは、纏持ちの職も出来たのである。
江戸の火消し役は、住宅にまとい[#「まとい」に傍線]を立てゝ、若年寄の配下に三百人扶持をうけたと言ふから、市中出火の折には其まとい[#「まとい」に傍線]を振りたてゝ、日傭人足の指図をしたのである。弓が袋に納つた世の中には、さし物[#「さし物」に傍線]の名目からまとい[#「まとい」に傍線]が忘れられ、三軍を麾いた重器を、火事場へ押し出す様になつたのである。さうして銀箔地へ家々の定紋を書いてばれん[#「ばれん」に傍線]をつけたまとい[#「まとい」に傍線]が、今の白塗りの物となつたのは、寛政三年から後の事で、享保四年大岡越前守等の立案で、町火消六十四組を定めて、一本宛のま
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