印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまとい[#「まとい」に傍線]とも言うた事があつたであらう。ばれん[#「ばれん」に傍線]・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。
まとい[#「まとい」に傍線]の要素たるばれん[#「ばれん」に傍線]や、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈|彼《かの》自身たて物[#「自身たて物」に傍線]と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。蒲生家のさし物[#「さし物」に傍線]が、熊の棒[#「熊の棒」に傍線](蒲生軍記)或は熊の毛の棒[#「熊の毛の棒」に傍線](古戦録)と言ふ名で、其猛獣の皮が捲いてあつたといふ事実は、愈すたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]一類の物として、まとい[#「まとい」に傍線]・自身たて物[#「自身たて物」に傍線]の源流らしいものがあつた事を、仄かして見せてゐるのではなからうか。やまとたける[#「やまとたける」に傍線]等の八尋桙・丈部の杖からまとい[#「まとい」に傍線]に至る間に、歴史の表に顕れずして過ぎた年月があまりに長く、又可なり縁遠く見える。併し、幣束に似たはた[#「はた」に傍線]が、唐土風な幡旗の陰に、僅かに俤を止めてゐた間に、戦場の桙は、都と交渉少い道のはて/\に竄《かく》れて、武士の世になると共に、又其姿を顕したが、長い韜晦の間に、見かはすばかり変つた姿になつて、其或物は家と縁遠い神々・精霊を竿頭に斎《イハ》ひこめて居なかつたとも限らぬ。
清正の様に、強力無双の人で無ければ、振られ(清正記)ない、大纏が出来てからは、纏持ちの職も出来たのである。
江戸の火消し役は、住宅にまとい[#「まとい」に傍線]を立てゝ、若年寄の配下に三百人扶持をうけたと言ふから、市中出火の折には其まとい[#「まとい」に傍線]を振りたてゝ、日傭人足の指図をしたのである。弓が袋に納つた世の中には、さし物[#「さし物」に傍線]の名目からまとい[#「まとい」に傍線]が忘れられ、三軍を麾いた重器を、火事場へ押し出す様になつたのである。さうして銀箔地へ家々の定紋を書いてばれん[#「ばれん」に傍線]をつけたまとい[#「まとい」に傍線]が、今の白塗りの物となつたのは、寛政三年から後の事で、享保四年大岡越前守等の立案で、町火消六十四組を定めて、一本宛のまとい[#「まとい」に傍線]を用ゐる事を許したのが、此迄武士の手を離れなかつた此軍器が駈付け人足の手に移つた始めである。
火消役のまとい[#「まとい」に傍線]には、家々の定紋を押してゐたが、町人の手に移つてからは、組々の印を明らかに見せる為、かの多面体の張り籠が工夫せられたので、六十四本の中、竿頭にだし[#「だし」に傍線]としてつけた物には籠を想化し、又は籠其物を使うた物が多い。敢へて「籠目のまとい[#「まとい」に傍線]はこはすとも」と豆辰《マメタツ》の女房が、夫を励ました十番め組のものには限らないのであつた。
恐らく小まとい[#「小まとい」に傍線]なる物が、ある武士の国に作り出されて、大将自身に振つて居たのが、出来るだけ全軍の目につく様にといふ目的から、次第に大きなまとい[#「まとい」に傍線]に工夫しなほされ、やがては大将在処の標ともなつたものであらう。
白石はかの「甲陽軍鑑」の記事から、其北条氏起原説を採つてゐる(白石紳書)。併し今一歩を、何故甲州方の観察にふみ入れて見なかつたのであらう。其形は、考へ知る事はおぼつかないが、古くはまとい[#「まとい」に傍線]が甲州方の標識になつて居たと思はれる根拠(関八州古戦録・甲陽軍鑑・仙道記・平塞録)がある。的居などに交渉のない、存外な物の名を言ふ、甲州の古い方言が、此軍器と共に、山の峡から平野の国々に、おし出して来たものと言ふ想像が出来ぬでもない。



底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「土俗と伝説 第一巻第三号」
   1918(大正7)年10月
※底本の題名の下に書かれている「大正七年十月「土俗と伝説」第一巻第三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2007年4月28日作成
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