つた。飛鳥朝宮廷にも既に行うた記録のある元旦拝賀の儀の中の、諸氏の奏寿は、鎮魂祭の分裂したものであり、室町あたりから書き物に見える七夕の翌日から盆の前日にまで亘つた、生御魂《イキミタマ》の「おめでた言《ゴト》」と一つ事であつた。親や親方・烏帽子親を拝みに行く式である。宮廷では、主上自身、上皇・皇太后を拝みに、朝覲行幸《テウキンギヤウカウ》を行はせられた。縁女・奉公人の藪入りも、上元・中元をめど[#「めど」に傍線]とした親拝みの古風である。即、鎮魂の一様式でもあつた。
かうして見ると、秋祭りには、穂祭り・神嘗祭りの意義のものが多く、真の秋祭りとも言ふべき新嘗祭りは、段々、消えて行つた。さうして其上に、夏祭りと同根の、夏祓への分化した様式が、七夕節供や水神供となり、又祭りの余興としか考へられなくなつた相撲があり、すつかり見え[#「見え」に傍点]の変つて了うたのが、盂蘭盆であり、何ともつかぬ年中行事となつたのが、盆礼の「おめでたごと」であつた。
かう言ふ夏祓へと、穂祭りとを合体させたものが、住吉の宝の市の神輿渡御であつた。桝を売るから、桝市とも言ふ。此方から見れば、秋祭りであるが、神輿洗ひや童相撲などから見ると、祓へであり、水神祭りでもある。而も、其数日後の九月尽に、神有月に参加せられるのを見送るのだと言ふが、此は恐らく、秋から冬への季の移り目の祓への考への上に、田の神上げの行事がとりこまれてゐるのらしい。秋の終りに、田の神を上げると言ふ考へは、田の行事は秋きりとした考へが、事実の上にまだ秋果てぬ十月でも、田の神は還るものと、言語の上だけで信じた為もある。穂祭りの秋祭りも、さうした秋冬に対する伝承上の限界が事実を規定して、新嘗のおとりこし[#「おとりこし」に傍線]など言ふ考へさへ添うて来たのかも知れない。
冬の行事の、秋にとりこされる様な風習のあつた痕は段々見える。中には、冬の行事なるが故に、一月以前にくりあげて行ふ、と言ふ風までも出来たらしい。門徒宗では親鸞忌の報恩講を、一月くりあげて、十月に修して、此をおとりこし[#「おとりこし」に傍線]と言うてゐる。十一月の冬至を冬の果と見る様な考へも、この風を助成したであらう。が、新嘗や鎮魂祭が冬の極み、と言ふ考へも伝つてゐた為、十二月にあるべき事を十一月にとり越してゐる。月次祭りの変形らしい。京辺の大社の冬祭りは、大抵十一月の行事になつてゐた。除夜から元旦へかけての、春祭りであるはずの条件を備へた、春日若宮のおん祭り[#「おん祭り」に傍線]は、十一月の末に、田遊びや作物の祝言を執り行ふ。お火焼《ホタ》きの神事は、正月十四日の左義長や、除夜にあつた祇園の柱焼きの年占などを兼ねた意味のものであつて、初春を意味する日の前日にするはずのものだ。だから、上元の前日や、節分の日や、大晦日の夜に行ふべきのが、十一月中の神事ときまつてゐた。

     四

市はもと、冬に立つたもので、此日が山の神祭りであつた。山の神女が市神であつた。此が、何時からか、えびす神[#「えびす神」に傍線]に替つて来、さうして、山の神に仕へる神女、即山の神と見なされたり、山姥と言ふ妖怪風の者と考へられたりしたのである。だから、年の暮れ、山の神が刈り上げ祭りに臨む日が、古式の市日であつた。此意味で、天満宮節分の鷽替《ウソカ》へ神事などは、大晦日の市と同じ形を存してゐるのだ。其山の神祭りも、市神祭りの夷講も、十月にとり越されて居る。而も、冬祓への変形らしい誓文払ひは、夷講に附随してゐる。正月の十日夷も十四日或は除夜の転化した祭日で、富みを与へる外に、祓へてくれるものであつたので、此も、春待つ夜の行事であつた。其が、市神・山の神の祭りと共に、繰り上げられて、十月の内に行はれる様になつた。山の神の祠の火焼《ホタケ》は、やはり、十一月のお火焼き神事と一つものであつた。
海から来る常世のまれびと[#「まれびと」に傍線]が、やはり海の夷神に還元するまでは、山の神が代つて祓へをとり行うた。これは宮廷の大殿祭《オホトノホガヒ》や大祓へに、山人と認定出来る者の参加する事から知れる。山人は、山の神人であり、山の巫女が山姥となつて、市日には、市に出て舞うた。此が山姥舞である。
大和磯城郡穴師山は、水に縁なく見えるが、長谷川の一源頭で、水に関係が深かつた。穴師|兵主《ヒヤウズ》神は、あちこちに分布したが、皆水に交渉が深い。山人の携へて来るものが、山づと[#「山づと」に傍線]と呼ばれて、市日に里人と交易せられた。山蘰《ヤマカヅラ》として、祓へのしるしになる寄生木《ホヨ》・栢《カヘ》・ひかげ・裏白の葉などがあり、採り物として、けづり花[#「けづり花」に傍線](鶯や粟穂・稗穂・けづりかけ[#「けづりかけ」に傍線]となる)・杖などがあつた。柳田先生の考へによれば、採り物のひさご[#「ひさご」に傍線]も、山人のは、杓子であつた。
山人といふ語は、仙と言ふ漢字を訓じた頃から、混乱が激しくなる。大体、其以前から、山人は山の神其ものか、里の若者が仮装したのか、わからなかつた。平安の宮廷・大社に来る山人は、下級神人の姿をやつしたものと言ふ事が知れてゐた。
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あしびきの 山に行きけむやまびとの心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王――万葉巻二十)
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この歌では、元正天皇がやまびと[#「やまびと」に傍線]であり、同時に山郷山|村《フレ》(添上郡)の住民が、奈良宮廷の祭りに来るやまびと[#「やまびと」に傍線]であつた。この二つの異義同音の語に興味を持つたのだ。仙はやまびと[#「やまびと」に傍線]とも訓ずるが、「いろは字類抄」にはいきぼとけ[#「いきぼとけ」に傍線]とも訓んでゐる。いきぼとけ[#「いきぼとけ」に傍線]の方が上皇で、山の神人の方が、山村の山の神であり、山人でもある村人であつた。
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あしびきの山村《ヤマ》行きしかば、山人の我に得しめし山づとぞ。これ(太上天皇――万葉巻二十)
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此が、本の歌になつた天皇の作である。これにも、語の幻の重りあうたのを喜んで居られるのが見える。山人を仙人にとりなして「命を延べてくれるやまびと[#「やまびと」に傍線]の住む山村へ行つた時に、やまびと[#「やまびと」に傍線]が出て来て、おれに授けた、山の贈り物だ。これが」と言ひ出された興味は、今でも訣る。
高市・磯城の野に都のあつた間は、穴師山の神人が来、奈良へ遷つてからは、山村から来る事になつたらしい。この山人が、次第に空想化して、山の神・山の精霊・山の怪物と感じられる様にもなつたのだ。穴師の神人は山人でありながら、諸国に布教して歩いた。それを見ると、里と交通の絶えた者どもでもなかつたのである。唯、市日と、宮廷・豪家の祓へに臨む時だけは、山蘰を捲き、恐らく、からだ中も、山の草木で掩うてゐた事があるのだらう。
山城京になると、山人は、日吉から来たのらしい。三輪を圧へる穴師が、三輪山の上にあつた様に、加茂を制する為の山の神は、高く聳える日吉の神でなければならなかつた。だから、はじめは、山人も比叡の神人の役であつたらう。而も、此が媚び仕へることによつて、神慮を柔げるものとしたのだ。加茂にも、平野にも、山人が祭りに出たのは、媚び仕への形である。松尾が日吉と同じ神とせられてゐるのは、平野が大倭神であり、加茂が三輪系統のあぢすきたかひこねの命[#「あぢすきたかひこねの命」に傍線]としての伝へもあつたからであらう。日吉の神人は、松尾の社に近く住んで居たらしく、桂の里との関係も、考へられぬではない。
加茂祭りの両蘰《モロカヅラ》は、葵と桂とであつた。だから、平安京の山人は、簡単な姿をしてゐたのであらう。そして、其祓へがすんで、神のかげ[#「かげ」に傍線]を受けるものゝしるし[#「しるし」に傍線]として、山づとの両蘰をくばつて歩いたのであらう。神になつた扮装の、極度に形式化したものが、蘰で頭を捲いたのだ。其が更に、物忌みの徽章化したのが両蘰の類で、標《シ》め縄・標め串と違はぬ物になつたのである。
冬の祭りは、まづ鎮魂であり、又、禊ぎから出たものである。春祭りのとりこし[#「とりこし」に傍線]もあるが、冬の月次祭出のものもあり、新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]に属するものもある。第一にきめてかゝらねばならぬのは「ふゆ」といふ語の古い意義である。「秋」が古くは、刈り上げ前後の、短い楽しい時間を言うたらしかつたと同様に、ふゆ[#「ふゆ」に傍線]も極めて僅かな時間を言うてゐたらしいのである。先輩もふゆ[#「ふゆ」に傍線]は「殖ゆ」だと言ひ、鎮魂即みたまふり[#「みたまふり」に傍線]のふる[#「ふる」に傍線]と同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆ[#「みたまのふゆ」に傍線]と言ふのだとしてゐる。即、威霊の増殖と解してゐるのである。触るか、殖ゆか、栄《ハ》ゆか。古い文献にも、既に、知れなかつたに違ひない。
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誉田の日の皇子 大雀《オホサヽギ》 おほさゝぎ、佩かせる太刀。本つるぎ 末《スヱ》ふゆ。冬木のす 枯《カラ》が下樹《シタキ》の さや/\(応神記)
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たゞ、此|国栖《クズ》歌で見ると、所謂国栖[#(ノ)]奏の意義が知れる。此は、国栖人のする奏寿で、鎮魂の一方式なのだ。此太刀は常用の物でなく、鎮魂の為の神宝なので、石[#(ノ)]上の鎮魂の秘器なる布留の御霊の様に、幾叉にも尖が岐れて居た。劔と言うたのは、両刃《モロハ》を示すので、太刀の総名であり、根本は両刃の劔の形である。尖の方では、分岐して幾つにもなつてゐる。かう言つて来て、祓へに使ふ採り物の木の方に移るのだ。
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枯野《カラヌ》を塩に焼き、其《シ》があまり琴に作り、かきひくや 由良の門《ト》の門中《トナカ》の岩礁《イクリ》に ふれたつ なづの木の。さや/\(仁徳記)
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と言ふのも、実は国栖歌の同類である。恐らくは、謡ひ納《ヲサ》めの末歌ではなからうか。
ふゆき[#「ふゆき」に傍線]と言ふのは、冬木ではなく、寄生《ホヨ》と言はれるやどり木[#「やどり木」に傍線]の事であらう。「寄生木《フユキ》のよ。其」と言ひつゞけて、本末から幹《カラ》の聯想をして「其やどつた木の岐れの太枝《カラ》の陰の(寄生)木のよ。うちふるふ音のさや/\とする、この通り、御身・御命の、さつぱりとすこやかにましまさう」と言ひつゞけて、からがしたき[#「からがしたき」に傍線]からからぬ[#「からぬ」に傍線]を起して、しまひに、採り物のなづの木[#「なづの木」に傍線]の音のさや/\に落して行つたのだ。枯野を舟の名とする古伝承は疑はしい。
此「なづの木よ。いづれのなづぞ。」かう言ふ風な言ひ方で「幹《カラ》ぬよ。其木の幹を海渚に持ち出で焼き、禊ぎさせる今。此弾く琴も、其幹のづぬけた部分で作り、かう掻きひくところの、音のゆら/\でないが、由良の海峡《セト》の迫門中《トナカ》のよ。其岩礁に物が触れるではないが、御身に触れ撫でようと設けた此なづの木の、御衣にふれる音よ。そのさや/\と栄えましまさう。」かう言つた風に、天子の呪力から、自分の採り物として頭にかざした寄生木に寄せ、又撫で物として節折りに用ゐたなづの木[#「なづの木」に傍線]――恐らくなすの木[#「なすの木」に傍線]で、聖木つげ[#「つげ」に傍線]の類のいすの木[#「いすの木」に傍線](ひよん[#「ひよん」に傍線]ともいふ)――に寄せて行く間に、建て物の祝言として、き(木)を繰り返し、鎮魂関係の縁語ふゆ・さや/\・潮水《シホ》・琴・ゆら・ふる・なづなどを、無意識ながらとりこんでゐるのである。
寄生木は、外国でもさうである如く、我国でも、神聖な植物としてゐた。
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あしびきの山の木末《コヌレ》のほよ[#「ほよ」に傍線]とりて、かざしつらくは、千年|祝《ホ》ぐとぞ(万葉巻十八)
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家持
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