いて、稲子《イナゴ》は雨の降る様に胸・腰・裾に飛びつく。はざ[#「はざ」に傍線]はまだな処もあり、既に組み立られた田の畔もある。だがまだ、近い温泉町へ出かける相談などは、出来て居ないらしい。おちついた様で、ひと山、前に控へた小昼休みとでも言つた、安気になりきれない顔色の年よりが、うろついてゐる。若い男は、も一つ実の入る様に、ひと囃しくれべいとでも考へてか、ぶち[#「ぶち」に傍線]も折れよと、太鼓を打つてゐる。よく/\県下の社でも特殊神事とせられてゐるのでなければ、冬も霜月・師走に入つて、刈り上げ祭りらしいものを行うてはゐない。若しあつても「お火焼《ホタケ》」や「夜神楽」「師走祓へ」の様な外見に包まれてゐる。
堂々たる祝詞や、卜ひを伴ふ宮廷風の穂祭りは、神社の行事になり、村の昔の、もつと古くから続いた刈り上げの新嘗は、家々の内々の行事となつて行つた。早稲を試食した後だから、別の方法をとる村々もあつた。餅・粢《シトギ》・握り飯・餡流し飯・小豆米、色々と村の供物の伝承は、分れて行つた。正月に餅つかぬ家や村などがあり、歳晩の一夜を眠らぬ風も行はれた。皆、刈り上げ祭りの夜の供物や物忌みの行はれた痕跡である。大歳の夜の事になつてゐるのは、実際謂はれのある事で、刈り上げ祭りが、春待つ夜に行はれた事をも見せて居るのだ。だが、祭りの時間が長びき、又一続きの儀式の部分に、大切な意義を考へる様になると、段々日を別けてする様になるのは、当りまへであつた。
新嘗祭りの十一月には、古くて秘密の多かつたらしい鎮魂の神遊びが続いてある。十二月になつて、清暑堂の御神楽があり、おしつまつて大祓へ・節折《ヨヲ》りが行はれる。其夜ひき続いて、直日神の祭りから、四方拝とある外にも、今日では定めて行はれてゐない儀式が他にもあつたらしい。後には、元旦ではなくなつたが、歳旦の朝まつりごと[#「朝まつりごと」に傍線]として、まづ行はせられるはずの儀式が、拝賀であつた。
拝賀は臣下のする事で、天子は其に先だつて、元旦の詔旨を宣《ノ》り降されるのであつた。此時の天子の御資格が、神自身である事を忘れて、祭主と考へられ出したのは、奈良・藤原よりも、もつと古いことであらう。併し、天子は、此時遠くより来たまれびと神[#「まれびと神」に傍線]であり、高天原の神でもあつたのだ。さうして、現実の神の詔旨伝達者《ミコトモチ》の資格を脱却せられてゐる。元旦の詔旨を唱へられると共に、神自身になられるのである。其唱誦の為に上られる高座が、天上の至上神としての資格の来り附いた事を示すので、此が高御座であつた。そして、段々、大嘗祭りに限つた玉座の様に考へられて行つたのである。
大嘗祭りは、御世始めの新嘗祭りである。同時に、大嘗祭りの詔旨・即位式の詔旨が一つものであつた事を示してゐる。即位から次の初春迄は、天子物忌みの期間であつて、所謂まどこ・おふすま[#「まどこ・おふすま」に傍線]を被つて、籠られるのである。春の前夜になつて、新しい日の御子誕生して、禊ぎをして後、宮廷に入る。さうして、まれびと[#「まれびと」に傍線]としてのあるじ[#「あるじ」に傍線]を、神なる自分が、神主なる自身から享けられる。此が、大祓へでもあり、鎮魂でもあり、大嘗・新嘗でもある。さうして、高天原の神のみこともち[#「みこともち」に傍線]たる時と、神自身となられる時との二様があるので、伝承の呪詞と御座とが、其を分けるのである。
即位元年は、実は、次の春であるべきであつた。大殿祭・祓への節折《ヨヲ》りに接して大嘗祭り、此に続いて鎮魂式、尚もひき続いて直日呪詞、夜が明けると共に、高御座ののりと[#「のりと」に傍線]が行はれる。此皆、天子自身の行事であつたのを、次第に忘れ、省き、天子のみこともち[#「みこともち」に傍線]に委ねられる様になつた。四方拝、実は、高御座の詔旨唱誦であつたのだ。かうして、神自身であり、神の代理者であることが定まる。
此が御代の始めであつた。此呪詞は、毎年、初春毎にくり返された事は、令の規定を見ても知れるのである。此詔旨を宣り降される事は、年を始めに返し、人の齢も、殿の建て物もすべてを、去年のまゝに戻し、一転して最初の物にして了ふ。此までのゆきがゝりは、すべて無かつた昔になる。即位式が、先帝崩御と共に行はれる様になり、大・新嘗祭りは、仲冬の刈り上げ直後の行事と変り、日の御子甦生の産湯なる禊ぎは道教化して、意義を転じ、元旦の拝賀は詔旨よりも、賀を受ける方を主とせられる様になつて行つた。でも、暦は幾度改つても、大晦日までを冬と考へ、元旦を初春とする言ひ方・思ひ方は続いてゐて「年のうちに、春は来にけり」など言ふ、たわいもない様な興味が古今集の巻頭に据ゑられる文学動機となつたのも、此によるのだ。又、世直しの為、正月が盆から再はじまり、徳政が宣せられたりもした。後世の因明論理や儒者の常識を超越した社会現象は、皆、此即位又は元旦の詔旨(のりと[#「のりと」に傍線]の本体)の宣《ノ》り直《ナホ》す、と言ふ威力の信仰に基いてゐるのだ。
秋と言へば、七・八・九の三月中とする考へが、暦法採用以後、段々、養はれて来たが、十一月の新嘗の初穂を、頒けて上げようと言ふ風神との約束に「今年の秋《アキ》[#(ノ)]祭《マツ》りに奉らむ……」と言つた用例を残してゐる。此祝詞は、奈良朝製作の部分が、まだ多く壊れないでゐるものと思へる。すると、秋祭りは刈り上げの祭りと言ふことになる。六月(月次祭)でも、九月(神嘗祭り)でも当らないから、此あき[#「あき」に傍線]は、暦利用以前の秋に違ひなく、田為事の終る時期を斥す語であらう。新嘗・市・交易・饗宴、かうした事実が、此語を中心にして聯絡を持つてゐるのは、あき[#「あき」に傍線]が刈り上げの祭りの期間を表すこともあつたらしく思はせる。私は、仮説として、条件つきの立願をねぐ[#「ねぐ」に傍線]、願果しをあく[#「あく」に傍線]と言うたのではないかと考へてゐる。「秋祭りに奉らむ……」とあるのは「刈り上げの折のまつり」と言ふだけの事で、今の秋祭りに対しては、稍自由である。そして、こゝのまつり[#「まつり」に傍線]と言ふ語も、唯の祭典の義ではないらしい。
祭りの用語例は、二つあげたが、此は亦違つて、献上するの義である。たてまつる[#「たてまつる」に傍線]・おきまつる[#「おきまつる」に傍線](奠)などのまつる[#「まつる」に傍線]で、神・霊に食物・着物其他をさしあげる事を表してゐる。先師三矢重松博士は、此「献《マツ》る」を「祭る」の語原とする説を強められた。まづ今までゞのまつり[#「まつり」に傍線]の語原論では、最上位のものである。師説を牾《モド》く様で、気術ないが、私はも少し先がある、と考へてゐる。

     三

新嘗の意味の秋祭りの外に、秋に多い信仰行事は、相撲であり、水神祭りであり、魂祭りである。秋の初めから、九月の末に祭りを行ふ様な処までも、社々で、童相撲・若衆相撲などを催す。それは、宮廷の相撲|節会《セチヱ》が七月だから、其を民間で模倣したと言ふことも出来ぬ。此を農村どうしの年占或は、作物競争と見る人もあらう。だが其よりも、不思議に、水神に関係してゐる事である。野見宿禰を必、先、説く相撲は、「腰折れ田」の伝説から見ても、田の水に絡んでゐる。もつと古く溯ると、隼人の俳優《ワザヲギ》・相撲などの起原を説く海幸彦・山幸彦の争ひなどもさうで、水神と地霊との力比べを説く呪詞の、叙事詩化した物から出てゐるのである。水神に相撲の絡んでゐるのは、諏訪と鹿島両明神の力比べもさうであつて、海を越えて来た――天鳥船神が伴うてゐる――神を鹿島とし、地霊を諏訪として、神話化したのである。
河童が相撲を好んで、人を見れば挑みかけるとしてゐる伝承も、基く所は古いのであつて、九州方の角力行事なども、妖怪化した水の侏儒河童を対象にした川祭り[#「川祭り」に傍線]が、大きな助勢をした様である。そして、春祭りに行うた筈のが、五月の田遊びにも、七月の水神祭りにも、処々の勝手で、行ひ改められたのであらう。然るに、大凡、海から来る神の、川を溯つて、村々に臨む時期が、段々、きまつて来た。「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」目につく頃である。
かうして、年一度来る筈の、海の彼方のまれびと神[#「まれびと神」に傍線]が、度々来ねばならなくなり、中元を境にして、年を二つに分けて考へ、七月以後は春夏のくり返しと言ふ風の信仰が出て来た。此は、夏の禊ぎが盛んになつた為でゞもあつた。禊ぎには、まれびと神[#「まれびと神」に傍線]の来臨が伴ふものとしてゐた信仰からは、夏から秋への転化を、新しい年のはじまりと考へないでは居られなかつたのだ。
この時期は、仏家でも、盂蘭盆会を修する時である。歳の果から初春にかけて、海の彼方のまれびと[#「まれびと」に傍線]が出て来、眷属となつてゐる数多の精霊も、其に随うて、村へ集る。村人の成年戒を受けて後死んだ者の魂は、皆、海の彼方の国――常世の国――に行つてゐて、それらが来るのである。で、年を元に戻し、春を齎す呪詞の神の来る行事が、夏の終りにも再、行はれる様になると、常世の精霊たちも、秋のはじめに今一度、人間の村を訪れる事になる。其が、盂蘭盆と一つに考へられると、秋の魂祭りとなる。此中元に来るまれびと[#「まれびと」に傍線]の考へは、海邑から移つた山野の村の勢力の殖えた時代に、既に出てゐた。従つて、海に続いた川を遥かに溯つて来るもの、とせられる様になつた。
海岸に神を迎へた時代にも、地方によつては、此まれびと[#「まれびと」に傍線]の為、一人、村から離れ住んで、海波の上に造り架けた様な、さずき[#「さずき」に傍線]ともたな[#「たな」に傍線]とも謂はれた仮屋の中で、機を織つてゐる巫女があつた。板挙《タナ》に設けた機屋の中に居る処女と言ふので、此を棚機《タナバタ》つ女《メ》と言うた。又弟たなばた[#「弟たなばた」に傍線]とも言ふのは、神主の妹分であり、時としては、最高位の巫女の候補者である為でゞもあつた。此棚機つ女の生活は、早く、忘れられる時代が来た。でも、伝説化して、今までも残つてゐる。したてる媛[#「したてる媛」に傍線]の歌と言ふ大歌|夷曲《ヒナブリ》の「天《アメ》なるや弟たなばたの領《ウナ》がせる珠のみすまる……」(神代紀)など言ふ句の伝つたのも、水神の巫女の盛装した姿の記憶が出てゐるのだ。これが初秋であり、川水に関係がある上に、機織る女性にまづ迎へられる男性と言ふ、輪廓の大体合うた処から、七夕の織女・牽牛二星を奠《マツ》る行事といふ風に、殆ど完全に、習合せられて了うた。
七夕の供へ物・立て物などを川へ流す外、川に棚や縄を懸けて、盆棚同様の供物をする処もある。又、害虫や睡魔を払ひ棄てる風俗さへ添うてゐる。此から見ると、水神祭りの形が、不自然な点の残らぬほど、星祭りに変つて行つても、やつぱりどこかに、古代の影は残つてゐたのだ。此水神祭りは、元々、夏祓へと同じものであつて、村や家に迎へる方は、盂蘭盆会に任せて了うて、水神迎へと禊ぎとの痕跡だけを、七夕の乞巧奠に止めた。さうして、新しく水神祭りを始めて、灌漑の用水から、水死の防止などまでをも、委托する事になつたのである。
盂蘭盆会も、仏法種よりも、寧、古代信仰が多く残つてゐる様だ。飛鳥朝の末などの盂蘭盆の記録などの、異国臭いのと比べると、後代のは、よつぽど和臭を露骨にしてゐる。盆棚なども、仏家の式と言ふより、陰陽道を経て移つて行つた形なる事を見せてゐる。還つて来る精霊にも、尊者と従者或は無縁の霊などを分けてゐる。地方によつては、歳の夜から正月へかけて、戻つて来る聖霊の一群のあることを信じてゐて、其と歳棚へ来る歳徳神との間に区別を立てゝも居ない。「つれ/″\草」には、東国の魂祭りの、大晦日の夜に行はれた印象を書いてゐる。だから、盆に戻る聖霊は、水神祭りの対象でもあり、夏祓へに臨むまれびと[#「まれびと」に傍線]の一群でゞもあつたのだ。
夏にも鎮魂の式は忘れられてゐなか
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