はちまきの話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)清《ス》んで

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)即|裳著《モギ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)桂[#(ノ)]里

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

現在の事物の用途が、昔から全く変らなかつた、と考へるのは、大きな間違ひである。用途が分化すれば、随つて、其意味もだん/″\変化して来る。はちまき[#「はちまき」に傍線]の話は、ちようど此を説明するに、よい例になるだらうと思ふ。
さて、はちまき[#「はちまき」に傍線]は、どういふ処から出たか、と今更らしく言ふまでもないが、被りものゝはちまき[#「はちまき」に傍線]に到るまでに、幾度かの変遷を経てゐる。はちまき[#「はちまき」に傍線]・手拭ひ[#「手拭ひ」に傍線]などは、もとは一つもので、更にはちまき[#「はちまき」に傍線]は、頭に巻くものか、顔を隠すものか、ほゝかむり[#「ほゝかむり」に傍点]するのがほんとうか、と言ふ点になると、色々の問題が含まれてゐる。手拭ひは恐らく、以前は顔を隠すものと、手を拭ふものとの両方面があつたのが、だん/″\手を拭ふ方面へ進んで来たのかと思はれる。
私が沖縄へ行つた時撮つた、かつら[#「かつら」に傍線]やはちまき[#「はちまき」に傍線]の写真があるが、誰でも此を見れば、かつら[#「かつら」に傍線]とはちまき[#「はちまき」に傍線]とは関係のあるものだ、と考へるに違ひない。とにかく、今役者のつけるかつら[#「かつら」に傍線]と、昔の人が被つたかつら[#「かつら」に傍線]とは、同一の起原から出たものだと言ふことだけは訣る。
名高い山城の桂[#(ノ)]里にゐた「桂女」は、一種の巫女であつた事は、色々説明せられてゐる通りであるが、桂[#(ノ)]里に住んでゐたから桂女と称するのか、それともかつら[#「かつら」に傍線]を著けてゐるから桂女と称したのか、尠くとも、二様の見方があるであらう。かつらおび[#「かつらおび」に傍線]と称するものも、果して、桂女がするからさう称するのか、其とも、もとはかつら[#「かつら」に傍線]であつたのが、変つてからでもかつらおび[#「かつらおび」に傍線]を称せられたのか、色々と考へられる。ともかく、桂女と言ふのは、頭にかつら[#「かつら」に傍線]をしてゐたから、さう言はれたのだらう、と私は考へる。桂[#(ノ)]里に、必、住むものとは限らないから、偶然、桂[#(ノ)]里に住んでゐたのであらう。
かつら[#「かつら」に傍線]の呼び方であるが、かつら[#「かつら」に傍線]と清《ス》んで言ふのが正しいか、かづら[#「かづら」に傍線]と濁るのが正しいか。昔は音の清濁は、其ほど正確ではなかつたのだから、かづら[#「かづら」に傍線]と濁つてもよいので、寧、私の考へ方からいふと、かづら[#「かづら」に傍線]と言ふ方が統一がついて都合がよいのである。
さてかづら[#「かづら」に傍線]からどういふ風にして、はちまき[#「はちまき」に傍線]にまで到達する変化を経たか。

     二

桂女が巫女であつた事はあたりまへで、柳田先生が「女性」の七巻五号に「桂女由来記」と言ふ論文を載せられて、色々材料も提供せられてゐるが、女が戸主であつたこと、将軍家に祝福に行つたこと、御香《ごかう》宮に関係のあつたこと、それから巫女であつた事に間違ひはない。社から離れても、巫女であつた事は事実である。そして、かづら[#「かづら」に傍線]を頭に纏いてゐたからかつらめ[#「かつらめ」に傍線]と称したので、かつらまき[#「かつらまき」に傍線]・かつらおび[#「かつらおび」に傍線]のかつら[#「かつら」に傍点]も、かづら[#「かづら」に傍線]である。
かづら[#「かづら」に傍線]には、ひかげのかづら[#「ひかげのかづら」に傍線]・まさきのかづら[#「まさきのかづら」に傍線]が古くからあり、神事に仕へる人の纏きつける草や柔い木の枝などで、此が後のかもじ[#「かもじ」に傍線]となるのである。髢《カモジ》は、神々の貌をかたどつたから、称するのだといふが、かつら[#「かつら」に傍線]の「か」を取つてか文字[#「か文字」に傍線]と言うたのが、ほんとうであらう。倭名鈔にかつら[#「かつら」に傍線]・すへ[#「すへ」に傍線]とある。かつら[#「かつら」に傍線]は頭全体に著けるもので、すへ[#「すへ」に傍線]はそへ毛である。又、源氏物語末摘花の巻に、おち髪をためて、小侍従にかつら[#「かつら」に傍線]を与へた、とあるのは、髢である。
桂女の被るかつら[#「かつら」に傍線]、役者の著けるかつら[#「かつら」に傍線]と言ふ風に色々あるけれども、つら[#「つら」に傍線]はつる[#「つる」に傍線]と同じ語で、かづら[#「かづら」に傍線]はもと「頭に著ける」蔓草と言ふことであらう。蔓草を、ひかげのかづら[#「ひかげのかづら」に傍線]なる語にも見える様に、かげ[#「かげ」に傍線]とも称したことは、古今集東歌に、
[#ここから2字下げ]
筑波嶺《ツクバネ》のこのもかのもに、蔓《カゲ》はあれど、君がみかげに、ますかげはなし
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを見れば訣る事で、此歌は、山のどの方面にも蔓草があると言うて、みかげ[#「みかげ」に傍線]即お姿と言ふ語を起した恋歌なのである。
あめのみかげ[#「あめのみかげ」に傍線]・ひのみかげ[#「ひのみかげ」に傍線]には、祝詞に現れたゞけでも四通りの意味があるが、最初の意味は、屋根の高い処から、垂れ下げた葛の事である。即、蔓草で作つたつな[#「つな」に傍線]に過ぎない。
五節のひかげのかづら[#「ひかげのかづら」に傍線]は、後に被りものになつてしまうた。出雲国造神賀詞にあめのみかび[#「あめのみかび」に傍線]といふ語が出て来る。「美賀秘」と書いてあるが、みかげ[#「みかげ」に傍線]の書き違へか、伝へ違へであらうと言ふから、やはり頭に被るものである。播磨風土記にも蔭山[#(ノ)]里の条に、御蔭とあり、同じく被りものゝ意に用ゐてある。此等は、皆、被りものに近づいたもので、物忌みのしるし[#「しるし」に傍線]であり、神に仕へる清浄潔白な身であることを示すのである。所謂たぶう[#「たぶう」に傍線]である。冠の巾子《コジ》を止める髻華《ウズ》は、後に簪となるのであるが、此はもと、かづら[#「かづら」に傍線]から固定して、此様な別な意味を持つ様になつたのであらうと思ふ。
正月十四日の夜、宮中で行はれた男踏歌には、高巾子《カウコンジ》といふ白張りの高い巾子を著けて、踊つて出た。踊つて出るものは、綿で顔を蔽うて出た。勿論、絹綿《マワタ》であらう。眼だけ出して、高巾子の著いた白張りの冠を被つたので、支那の不良の徒の姿をまねたのだ、と言はれてゐるが、すべてさうした風を輸入する時には、何か其処に結合する点がなくては出来ないのだから、全然、此風を輸入だ、とは解せられない。踏歌は、もと歌垣のなごりで、年の始めのほかひ[#「ほかひ」に傍線]の意味のあつたものが支那化したのである。顔を隠すのは、常世神が村々を訪れた時と同じく、神だから隠してゐるのである。
また栄華物語若枝の巻、枇杷殿大饗応の条に「御霊会の細男手拭して、顔を隠したる心持ちする」とある。細男はさいのを[#「さいのを」に傍線]で、朝廷では人がなり、八幡系統のものには人形であつた。御霊会には、真の人間が扮装して出たのであらう。顔を隠すのと、頭に被るのとは、かうした関係があるのだが、も少し辿つて行つて見よう。

     三

[#ここから2字下げ]
はね蘰《カヅラ》今する妹をうら若み、いざ、率《イザ》川の音のさやけさ(万葉集巻七)
[#ここで字下げ終わり]
を始め、万葉集には其他に三首、はねかづら[#「はねかづら」に傍線]を詠みこんだ歌があるが、皆、性欲的な歌ばかりである。恐らく、女の元服の時に、はねかづら[#「はねかづら」に傍線]を為たものに相違ないが、どう言ふものであつたか訣らない。契沖は、花蘰として解してゐるが、はねかづら[#「はねかづら」に傍線]は其まゝで解したいものである。
沖縄では、加冠の時に、黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]空頂を予め拵へて置いて、被せる。黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]はかづら[#「かづら」に傍線]の変形であらう。そして、男が元服の時、黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]をつけたと同様に、女ははねかづら[#「はねかづら」に傍線]を著けたのではなからうか。
万葉の歌を見ると、処女に手のつけられない、男の悶えを詠んだ歌が沢山あるが、通経前の処女に手を著けるのは、非常に穢れだとしてゐたもので、先年、私が伊豆の下田で聞いた俗謡にも、未だに、其意味が謡うてあつた。ふれいざあ[#「ふれいざあ」に傍線]教授は「ごうるでん・ばう」の中に、少女の月事を以て隠れてゐるのを、犯した男が罰せられるのは、少女の神聖を破る為だ、と説明してゐる。併し、此にも、も少し深い意味を考へなくてはならない様である。
元服以前の女に手を附けると、神罰に触れると言ふけれども、日本の神道では、月事があつたり、夫を有つたりすることは巫女たる資格には影響のないことで、神功皇后は二人の主を持たれたので、仲哀天皇は夙く崩御されたのだ、と言ふ程である。だから、神に仕へる女は、真の処女(一)と、過去に夫を有つたことはあるが、今は処女の生活を営む者、即寡婦(二)と、夫を持つてゐても、ある期間だけ処女の生活をするもの(三)とに、分けることが出来る。
尚考へなくてはならぬのは、処女にも二通りある事である。此は男の側から言うても同じで、少年がまづ最初に元服すると、村の小さな祭り、即、道祖神祭りなどに与る事が出来、二度目に元服して、若者となつて、初めて、村の祭りに係る事が、出来る様になるのと同じ様に、少女にも、男の通ひ得るをとめ[#「をとめ」に傍線]と、真のをとめ[#「をとめ」に傍線]と二通りあつたのだ。結婚の資格の出来るのは、初めの元服、即|裳著《モギ》の後であらう。そして、二度目に元服する時に、はねかづら[#「はねかづら」に傍線]をしたのではなからうか。
壱岐の島では、独身者が死ぬと、途々花を摘んで頭陀袋に入れてやる。此を花摘み袋と言ふ。死んで行つても、生前村の祭事に与る資格のなかつた者は、行くべき霊の集合地に行つても、幅が利かないので、花を摘んで持たせて遣つたのである。其は、元服の時には物忌みの標《シルシ》にかづら[#「かづら」に傍線]を被ることを意味する。今も、沖縄では其標に三味線かづら[#「三味線かづら」に傍線]を著けるが、殊に、久高島では、のろ[#「のろ」に傍線]は籐の様なものを御嶽から取り出して、頭に纏ふのを見ても、元服の時に花を挿したことは疑はれない。即、元服したと言ふ標をして、冥土に送るのである。かづら[#「かづら」に傍線]は、ものいみ[#「ものいみ」に傍線]の標である。
古く領巾《ヒレ》と言ふものがあつた。采女が著けたものだ。昔は、ずつと短かゝつたのであらう。其にしても、其用途は未だに、はつきりしてゐない。「領巾かくる伴のを」などでは、団体を示した様にも見える。女に限らず、隼人などもやつてゐた様である。まじなひ[#「まじなひ」に傍線]の為か、髪を包む為か、どちらかであらうが、私は、髪の毛を包む為に、まじなひ[#「まじなひ」に傍線]の力を持つてゐるのだ、と解したい。采女は、宮中の勝手向きの為事ばかりしてゐた、と考へるのは間違ひで、国造の女・郡領の女、即、国々の神主の女だつたのだから、皆巫女であつたのである。其
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