たなばたと盆祭りと
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天《アメ》ノ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)之|少女《ヲトメ》者
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]
[#…]:返り点
(例)其於[#(ニ)][#二]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)天《アメ》[#(ノ)]湯河板挙《ユカハタナ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\に
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一
この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。
たなばた[#「たなばた」に傍線]は、七月七日の夜と、一般に考へられてゐる様であるが、此は、七月六日の夜から、翌朝へかけての行事であるのが、本式であつた。此点、今井武志さんの報告にある、信州上水内の八月六日の夜を以てするのが、古形を存するものゝ様である。沖縄に保存してゐるたなばた[#「たなばた」に傍線]祭りも、やはり七月六日の夜からで、翌朝になるとすんでゐた。
「水の女」の続稿には、既に計画も出来てゐるのであるが、たなばた[#「たなばた」に傍線]といふ言葉は、宛て字どほり棚機であつた。棚は、天《アメ》[#(ノ)]湯河板挙《ユカハタナ》・棚橋・閼伽棚(簀子から、かけ出したもの)の棚で、物からかけ出した作りである。その一種なる地上・床上にかけ出した一種のたな[#「たな」に傍線]ばかりが栄えたので、此原義は、訣りにくゝなつて了うた。たな[#「たな」に傍線]と言へば、上から吊りさげる所謂「間木」と称するもの、とばかり考へられるやうになつた。同行の学者の中にも、或はこの点、やはり隈ない理会のとゞかぬらしく、たな[#「たな」に傍線]を吊り棚とばかり考へてほかくれぬ人もある。
壁に片方づけになつてゐない吊り棚に、年神棚《トシダナ》がある。此は、天井から吊りさげるのが、本式であつた。神又は神に近い生活をする者を、直《ナホ》人から隔離するのがたな[#「たな」に傍線]の原義で、天井からなりと、床上になりと、自由に、たな[#「たな」に傍線]なるものは、作る事が出来た訣である。棚の一つの型をなす「盆棚《ボンダナ》」と称せられるものは、決して、普通の吊り棚でも、雁木《ガンギ》でもない。此は、地上に立てた柱の上に、座を設けたものが、移して座敷のうへにも、作られる様になつたのであつた。
だが、かうしたたな[#「たな」に傍線]の中にも、自然なる分化があつて、地上から隔離する方法によつて、名を異にする様になつた。一つは、盆棚形式のもので、柱を主部とするものである。珠玉の神を御倉板挙《ミクラタナ》(記)といふなどは、倉の棚に、此神を祀つたものと見てゐるが、これは、くらだな[#「くらだな」に傍線]に対する理会が、届かないからである。くらだな[#「くらだな」に傍線]が即《すなはち》倉で、倉の神が玉であり、同時に、天照皇大神の魂のしんぼる[#「しんぼる」に傍線]であり、また米のしんぼる[#「しんぼる」に傍線]として、倉棚に据ゑられたのである。
この倉は、地上に柱を立て、その脚の上に板を挙げて、それに、五穀及びその守護霊を据ゑて、仮り屋根をしておく、といふ程度のものであつたらしく、「神座《クラ》なる棚」の略語、くら[#「くら」に傍線]の義である。時には、その屋根さへもないものがあつて、それを古くから、さずき[#「さずき」に傍線]と言うた。後に、この言葉が分化した為に、而も、さずき[#「さずき」に傍線]その物の脚が高くなつた為に、別名やぐら[#「やぐら」に傍線]と称する称へを生んだ。神霊を斎ひ込める場合には、屋根は要るが、それでなくて、一時的に神を迎へる為ならば、屋根のないのを原則としてゐた。後には、棚にも屋根を設ける様になつたが、古くは、さうではなかつたのである。
だから、やまたのをろち[#「やまたのをろち」に傍線]の条に、八つのさずき[#「さずき」に傍線]を作つて迎へた、といふ事も訣るのである。此が、特殊な意義に用ゐられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てた所謂、かけづくり[#「かけづくり」に傍線]のものであつた。偶然にも、さずき[#「さずき」に傍線]の転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用ゐてゐるのを見ても、さじき[#「さじき」に傍線]或は棚が、かけづくり[#「かけづくり」に傍線]を基とした事を示してゐる。後には、此かけづくり[#「かけづくり」に傍線]をはしどの[#「はしどの」に傍線]などゝさへ称する様になつた。だから、考へると、市廛《イチタナ》の元の作りが訣つて来る様に思ふ。恐らく、異郷人と交易行為を行ふ場処は、かうした棚を用ゐたので、その更に起原をなすものは、棚に神を迎へ、神に布帛その他を献じた処から、出てゐるのである。
さうした意味から考へると、日本紀天孫降臨章にある、
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天孫又問曰、其於[#(ニ)][#二]秀起浪穂之上《ホダタルナミノホノウヘ》[#一]、起《タテ》[#二]八尋《ヤヒロ》殿[#(ヲ)][#一]而、手玉玲瓏織※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]《タダマモユラニハタオル》之|少女《ヲトメ》者、是[#(ハ)]誰|之女子耶《ガヲトメゾ》。答[#(ヘテ)]曰[#(ハク)]、大山祇神之女等。大《エヲ》号[#(ヒ)][#二]磐長姫[#(ト)][#一]少《オトヲ》号[#(フ)][#二]木華開耶姫[#(ト)][#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくり[#「かけづくり」に傍線]であつた、と見て異論はない筈である。此棚にゐて、はた織る少女が、即棚機つ女《メ》である。さすれば従来、機の一種に、たなばた[#「たなばた」に傍線]といふものがあつた、と考へてゐたのは、単に空想になつて了ひさうだ。我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋|交叉《ユキアヒ》の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。
かうして来ると、従来、
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天《アメ》なるや、おとたなばた[#「おとたなばた」に傍線]のうながせる、玉のみすまる、みすまるに、あな玉はや。三谷二渡《ミタニフタワタ》らす、あぢしきたかひこねの[#「あぢしきたかひこねの」に傍線]神ぞや(記)
[#ここで字下げ終わり]
といふ歌のたなばた[#「たなばた」に傍線]も、織女星信仰の影の、まだ翳さない姿に、かへして見る事が出来るのである。おと[#「おと」に傍線]といひ、玉のみすまる[#「玉のみすまる」に傍線]といひ、すべて、天孫降臨の章の説明になるではないか。而も、其織つた機を着る神のからだ[#「からだ」に傍線]の長大な事をば形容して、三谷二渡《ミタニフタワタ》らすとさへ云うてゐるではないか。此は美しさを輝く方面から述べたのではなく、水から来る神なるが故に、蛇体と考へてゐたのである。
かうした土台があつた為に、夏秋の交叉《ユキアヒ》祭りは、存外早く、固有・外来種が、融合を遂げたのであつた。其将に外来種を主とする様に傾いた時期が奈良の盛期で、如何に固有の棚機つ女に、織女星信仰を飜訳しようとしてゐるかゞ目につく。此様に訪ねて来た神の帰る日が、その翌日である為に、棚機祭りにくつつけて、禊ぎを行ふ処すらある。畢竟、祓へ・棚機の関係は、離すべからざるもので、暦日の上にあるいろんな算用の為方は、自然に起つた変化と見てよい。第一に禊ぎ自身が、神の来る以前に行はれる――吉事を期待する所謂吉事祓へ――行事であつた筈である。それが我々の計り知れぬ古代に、既に、送り神に托して、穢れを持ち去つて貰はうといふ考へを生じて来た。今日残つてゐる棚機祭りに、漢種の乞巧奠は、単なる説明としてしか、面影を止めてゐない。事実において、笹につけた人形を流す祓へであり、棚機つ女の、織り上げの布帛の足らない事を悲しんで、それを補足しよう――「たなばた[#「たなばた」に傍線]にわが貸すきぬ」などいふ歌が、此である――といふ、可憐な固有の民俗さへ、見られるではないか。だから、この日が、水上の祭りであることの疑念も、解ける訣である。
中尾逸二さんの郷里で行はれた「なのか日」の行事が、又一面、たなばた[#「たなばた」に傍線]祭りの面影を見せてゐる。他から来る神を迎へる神婚式即、棚機祭り式で、同時に、夏秋の交叉を意味するゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]を、男《ヲ》神・女《メ》神のゆきあふ祭りと誤解し勝ちの一例を見せてゐる。すべての点から見て、たなばた[#「たなばた」に傍線]祭りは、霊祭りと、本義において、非常に近い姿を持つてゐる。
二
七夕から盆へ続く間には、わが国の民俗の上に、意味のある行事が多くあつた。其中、最注意せられるのは「生き盆」即「いきみたま」の祭りである。この頃、聞く事甚稀になつたが、以前は盛んであり、此に関する文献も、可なり古く、溯れる様に思ふ。室町の頃から見える「おめでたごと」と、一つ行事である。
我々の過去には、正月の「おめでたう」の上に、今一度「おめでたう」を盆に唱へて、長上の健康を祝福したのであつた。これを、死者にする聖霊会と分つ為、十三日以前に行ふ事にしてゐた。盆礼の古い姿である。親・親方・主人の為にしたのが、殊には、族人の長上に向つて行ふ風が、目だつて見えた。
正式な形は、恐らく一人々々、ばら/\に出かけて、祝うて帰る、といつた風ではなく、定つた日に、長上の家に集つて、家主に向つて、一同から所謂、おめでた詞《ゴト》を述べたのであらう。正月ならば、てんでに、鏡餅を持つて据ゑに行く処を、多く、塩鯖を携へて行くやうに、手みやげの分化が、行はれてゐた。此鯖を捧げる極りは、未だに行はれてゐるやうであるが、元はかうした品物を、一般にさば[#「さば」に傍点]と称へてゐたのが、さば[#「さば」に傍点]ならば一層、さかな[#「さかな」に傍線]の鯖にした方が、言葉の上の祝福の効果も多からう、といふ考へから、いつか、さかな[#「さかな」に傍線]になつて行つたものと思ふ。実の処、年暦の改まる時に奉つたものは、魂であつたので、さば[#「さば」に傍点]――産飯《サバ》と書きなれてゐる所の――といふ語で表す様になつたのには、聯想の、他から加つて来たものと考へる。だから、此をも、たま[#「たま」に傍線]といふべきなのだらうが、長い年月の間に、盆・正月二期の同じ行事を、特殊な言葉で言ひ分ける必要を感じて来たのであらう。
魂を献上する式については、年末年始の際に、くり返す必要が、今から見えてゐるから、其時まで、説明の省略を許して頂くが、今言うてよい事は、なぜその魂を、生者にも、死者にも奉らうとするのであるか、といふ点である。死者の魂祭りに関しては、まつり[#「まつり」に傍線]の語の内容が、変化した近代において、前代から承けついだまゝの語形、たまゝつり[#「たまゝつり」に傍線]を俗間語原説から、亡き魂を奉祀すると考へてゐる。だが、語自身、疑ひもなく、魂を献上する行事の意味である。まつり[#「まつり」に傍線]なる言葉は、長上に献ずる義から、神の為の捧げものを中心にした祭儀といふのが、古意なのである。
死者に奉る魂の事は、年末の荷前使《ノザキノツカヒ》が、宮廷尊族の近親の陵墓へたてられたことから見ても、明らかである。この荷前《ノザキ》は、東人が捧げた、生蕃の国々の威霊であつたのを、天子から更に、まづ陵墓に進められたことゝ解する外はない。さうすると亡魂が返るのを、迎へてまつ
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