るといふのではなく、亡者に孝養《ケウヤウ》を示す為に、生前同様、目上としての待遇を、改めなかつたのであると思ふ。これが、次第に変化して来た処へ、仏家或は、仏教味を多く含んだ、前期陰陽道の習合観の加へられたもの、といふ見地の上に、研究を進めて行つて、さし支へはなからう。盂蘭盆と、年頭礼とを、全く別々に、一つを死者の為に、一つを生者の為と漠然たる区別をつける様になつても、やはり以前のおもかげは、隠れきつてゐないのである。この意味において、われ/\は、生き盆の材料・方式を、今のうちに、共同努力の下に、蒐集しておきたいと思ふ。
今一つ、この盆の期間に、大事の行事があつて、今や完全に、その転義をすらも忘れ去らうとしてゐる。其は、たなばた[#「たなばた」に傍線]前後から、此時期に渡つて行はれる、ぼんがま[#「ぼんがま」に傍線]の行事である。歳暮に行うたと称する「庭竈」の都風は、歌枕以後、誹諧の季題にまで保存せられてゐる。今も、荘内辺では、刈り上げ後に、にはなひ[#「にはなひ」に傍線]行といふことをする。家の内にゐないで、庭にゐて、所在なさに、縄を綯ふ物忌みだからといふので、勿論、新嘗と関聯する所はあるのであるが、これらの事実を見ても、一家族或は或種の人々が、家の建て物のうちにはゐないで、別に煮焚きの火床を構へて、謹慎する日があつたのである。
此が、一年後半期の年頭とも称すべき、盆の時において行はれるのが、専、村の少女の間にくり返されてゐる、右のぼんがま[#「ぼんがま」に傍線]なのであつた。恐らく、童遊びのまゝごと[#「まゝごと」に傍線]・おつかさんごと[#「おつかさんごと」に傍線]などいふ形を生み出した、元の姿として見るべきであらう。年頭に、男の子たちが、鳥小屋・かまくら[#「かまくら」に傍線]・道祖神小屋などに籠るのと、一つ意味のものであるが、かうして分居した団員が、その謹慎によつて、新な社会的資格を得る様になつた、と見る事が出来る。
即、同じ物忌みの沢山ある中でも、このぼんがま[#「ぼんがま」に傍線]は、女に対する成年戒――謂はゞ、成女戒とも名づくべき――の授けられる前提と見るべきである。此行事は、道祖神祭りに与る団員たちよりも、今少し年齢が自由で、かなり年たけた娘たちも、仲間入りしてゐる事を思へば、成年戒に対して行はれた準成年戒――幼童から村の少年・少女となる――よりは、広く、成女戒に属したものではないかと思ふ。だが、尚考へて見ると、此に先だつて行はれる早処女《サウトメ》定めとしての、卯月の山籠りのあるから思へば、もと/\、その範囲は、成女・成年となるべき人々をつくる、準成年戒授与の時期と見る方が、穏当らしく考へられるのである。
さう謂へば、おなじく「盆」を以て称せられる地蔵盆――又、地蔵祭りとも――の如きも時期は稍遅れて行はれるが、七夕・盂蘭盆に関係の浅くない事を見せてゐる。正式には、七月二十四日、処によつては、月見の頃に及ぶ事さへある。此が祭り主は、女の子である地方も、男の子である処もある様だ。何れにしても、正月の道祖神祭りとの間に、一脈の通じる処はある様である。
我々は、七月を以て踊り月と称してゐる。文月に行はれる種々の踊りの中、少女中心のものゝ多いのは、事実である。七夕の「小町踊り」盆の「をんごく」「ぼんならさん」など、皆ぼんがま[#「ぼんがま」に傍線]の結集を思はせる。一続きの行事である。男の子の道祖神勧進と、根柢において、かはる所はないのである。

     三

かう述べて来ると、正月と盆とで、男女の子どもの受け持ちが、違うてゐる様に見える。現にさうした傾きも、確にある。だが、更に藪入りの閻魔詣での風と、照し合せて考へると、もつと自由な処が窺はれる。この上元・中元に接した十六日を以て、子どもの閻魔に詣る日だと考へはじめたのは、訣のない事とは思はれぬ。正月の分は、恐らく中元の行事から類推して行ふ事になつたのであらうが、此と藪入りとの関聯してゐる点が、問題であると思ふ。閻魔或は地蔵の斎日に、一処に集ふといふ風は、大体、其期日の頃に行はれた古代の遺習の、習合せられてゐるものと考へる事が出来る。第一に、此が藪入りの一条件になつてゐるかの如く見える点において、注意すべきものがある。
年頭、或は中元に、長上のいきみたま[#「いきみたま」に傍線]を祝福する為に、散居した子・子方等の集り来るのが、近世の藪入りの起りであるらしい。処が、此行事にも、尚重り合うた姿が認められるのである。即、少年少女のみ特に属する所の神を祭る為に、来集するといふ習俗である。
やぶいり[#「やぶいり」に傍線]なる語の、方言的の発生を持つてゐることは、略見当をつける事が出来る。一地方から出て、広く行はれる様になり、内容も延長せらるゝ様になつたらしい。祭員としての少年少女を要する祭りが、村を出ぬ幼い住民の間に、課せられた時代の行事は、いつまでも、おなじ姿では居られなかつた。村を離れて、遠く住む者の多くなるに従うて、其祭りの時だけは、故郷に還るといふ風を生じて来た。だから、閻魔に詣で、或は地蔵に賽して後、生家を訪ふといふ事は、実は忘れて後の重複であつた。
かう言ふ風に、一つの年中行事も、決して、単一な起原から出てゐないのである。又更に我々は、藪入りと、奉公人出替りとにも、一続きの聯絡を見る事が出来るのである。藪入りを一つの解放と考へてゐる側から見れば、日は違ふだけで、出替りも亦、同様の基礎を持つてゐると思はれる。だから、この方面にも、又別の旧信仰の参加を見るのである。
一陽の来復する時を以て、従来の契約・関係を、全部忘却して了ふと言ふ古風があつた。此為に、一年を二部分に分けて考へる様になつて、盆からも、新しい社会生活がはじまるもの、とする考へ方を生じた。此信仰を、遠い昔から、わりあひに後までも繋いだのは、大祓の儀式の存してゐた為であつた。此によつて、新な状態の社会、旧関係を全然脱却した世間が現れると信じる様な不思議が、正面から肯定せられてゐた。出替りは、此意義において、半面の起原は明らかになる。
私は別の時に、大祓を説いて、以上の年中行事の元の俤を、今少しなりとも、明らかにしたいと考へてゐる。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日発行
初出:「民俗学 第一巻第一号」
   1929(昭和4年)年7月
※底本の題名の下に書かれている「昭和四年七月「民俗学」第一巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は「天孫又問曰、其於[#(ニ)][#二]秀起浪穂之上《ホダタルナミノホノウヘ》[#一]、起《タテ》[#二]八尋《ヤヒロ》殿[#(ヲ)][#一]而、手玉玲瓏織※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]《タダマモユラニハタオル》之|少女《ヲトメ》者、是[#(ハ)]誰|之女子耶《ガヲトメゾ》。答[#(ヘテ)]曰[#(ハク)]、大山祇神之女等。大《エヲ》号[#(ヒ)][#二]磐長姫[#(ト)][#一]少《オトヲ》号[#(フ)][#二]木華開耶姫[#(ト)][#一]。」ではルビの位置に、他は本文中に小書き右寄せになっています。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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