ごろつきの話
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)無頼漢《ゴロツキ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ごろつき[#「ごろつき」に傍線]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 ごろつき[#「ごろつき」に傍線]の意味
無頼漢《ゴロツキ》などゝいへば、社会の瘤のやうなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。
ごろつき[#「ごろつき」に傍線]の意味に就ては、二様に考へられてゐる。雷がごろ/\[#「ごろ/\」に傍点]鳴るやうに威嚇して歩くからだともいふが、事実はさうでなく、石塊がごろ/\[#「ごろ/\」に傍点]してゐるやうな生活をしてゐる者、といふ意味だと思ふ。徳川時代には、無宿者・無職者・無職渡世などいふ言葉で表されてゐるが、最早其頃になつては、大体表面から消えてしまうたと言へるのである。
ごろつき[#「ごろつき」に傍線]が発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつき[#「ごろつき」に傍線]から出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。此機会をとり逃し、それより遅れたものは、遂に、徳川三百年間を失意に送らねばならなかつたのであつた。
二 巡遊団体の混同
先、彼等は、どんな動き方をして現れて来たかを述べよう。
日本には、古く「うかれ人」の団体があつた事を、私は他の機会に述べてゐる。異郷の信仰と、異風の芸術(歌舞と偶人劇)とを持つて、各地を浮浪した団体で、後には、海路・陸路の喉頸の地に定住する様にもなり、女人は、其等の芸能と売色とを表商売とするやうになつたのであつたが、いつか彼等の間にほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の混同を見るやうになつた。大和朝廷の統一事業と共に、失職した村の神人たち、或は、租税を恐れて、自ら亡命したものなどがあつて、山林に逃げ込み、地方を巡遊したりしたものがあつたからだ。
一方、うかれ人[#「うかれ人」に傍線]の方も、漸次生活が変化して行つたが、何と言つても、彼等は奴隷としての待遇しか受けることが出来なかつた。
かうして、此二者は早くから歩み寄つてゐたのであつたが、更に、平安朝の末に至ると、愈其等のものが混同し、同化するやうになつた。行基門徒の乞食・陰陽師・唱門師・修験者など、さうした巡遊者が続出したからであるが、尚、それの一つの大きな原因は、貴族の勢力が失墜すると同時に、社寺の勢力も亦衰頽を来した為、其等の社寺に隷属してゐた奴隷たちが、自由解放を行うた事である。其等の社寺には、神人《ジンニン》・童子などゝ称し、社の祭事・寺の法会などに各種の演芸を行つたものが居つたが、彼等は生活の不安を感じ出した事によつて、其等の社寺を離れ、各自属した処の社寺の信仰と、社寺在来の芸能とを持つて、果なき流浪の旅に上る様なことになつた。彼等は、山伏し・唱門師の態をとつて巡遊したのであつた。在来の浮浪団体に混同したのは、当然のことである。
更に、此頃になつて目立つて来た、もう一つの浮浪者があつた。諸方の豪族の家々の子弟のうち、総領の土地を貰ふことの出来なかつたもの、乃至は、戦争に負けて土地を奪はれたものなどが、諸国に新しい土地を求めようとして、彷徨した。此が又、前の浮浪団体に混同した。道中の便宜を得る為に、彼等の群に投じたといふやうなことがあつたのだ。後世の「武士」は、実は宛て字である。「ぶし」の語原はこれらの野ぶし[#「野ぶし」に傍線]・山ぶし[#「山ぶし」に傍線]にあるらしい。又、前の浮浪者とても、元来が、喰はんが為の毛坊主商売なのであつて見れば、利を見て、商売替へをするには、何の躊躇もなかつた。
三 野伏し・山伏し気質
彼等は、先、人里離れた山奥に根拠を据ゑ、常には、海道を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、其臣下となり、土地を貰ひなどしたのであつたが、又中には、其等の豪族にとつて替つたものなどもあつた。
彼等が、豪族にとり入つた手段には種々あるが、一体に、彼等が道中したのは、武力で歩いたのではなく、宗教を持つて歩いた。行法を以てした山伏しである。義経が奥州へ落ちる時、山伏し姿で道中したのは、後の人から見れば、つくり山伏し[#「つくり山伏し」に傍線]であるが、当時としては、道中をするには其が普通だつたとも見られる。
彼等は団体をなして歩いた。山伏しについては、曾て「翁の発生」の中でも触れて置いたが、彼等が団体的に行動するなどゝいふことは、平安朝の頃まではなかつたのであつたが、時代の刺戟は、彼等を団体的に行動せしめるやうになつたのである。虚無僧・普化僧は、其一分派である。即、禅宗に結びついて出来たものである。彼等は単独の形をとつた。これの著しく目立つて来たのは、略、南北朝頃と思はれる。
彼等の団体には取締り監督があつた。先達が、其である。彼等は行く先々の家々村々を祈つて歩いた。彼等は、其で易々と糊口の道が得られたのであつた。若し、其等の家々村々でよくしないと、彼等は祈りの代りに呪ひをかけた。山伏しが逆法螺を吹くといふ事は、後々までも恐しい事にされてゐた。山伏しの悪業は近世ほどひどくなつたのであつたが、昔から、依頼と恐怖との二方面から見られてゐた。だから、彼等は易々と道中する事が出来たのであつた。
四 治外法権下の悪業
昔から、宗教の方面には、政治の手が届かなかつた。其には理由があるので、言はず語らずの掟があつて、彼等は全く政治家の権力以外を行つた。江戸時代になつてからも、寺社奉行などはあつたが、山伏しの取締りには、随分幕府も困つた様である。駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼等の中へ飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏しになつたなどゝいふのが少くない。前に述べた様な理由と、二重の理由によつて、易々と生活して行けたからである。
更に、彼等は後々までも、殊に徳川初期に於て諸大名たちを弱らせた事実に就ても、考へて置かねばならぬ。彼等が大名たちを弱らせたには、弱らせるだけの理由があつたと見られる。諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りてゐる。彼等は、戦国の当時には、殆ど庸兵として、諸国の豪族に腕貸しをしてゐる。後に大名になつたもので、彼等の助力を受けてゐないものは殆ど一人もない、と言うてよからう。又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのであつた。江戸時代になつて、虚無僧は幕府から朱印を貰うたといふが、其には、訣があつたのだと考へられる。
かゝる事情があつた為に、彼等は後々までも我儘をし、大名たちも、其を抑へる事が困難だつたのである。それには、彼等が法力を持つてゐたことも関係してゐたと思はれる。九州彦山の山伏しが虐殺されたことがある。如上の理由があつて、あまりに彼等の我儘が募り、悪業が高じた為だと思はれる。
五 祝言職としての一面
彼等はさうした法力を示してゐたが、山伏しの為事は、其だけではなかつた。常には、舞ひや踊りや歌をやつた。
彼等は、前にも言うたやうに、山奥に根拠を据ゑてゐた。私は幾度か三河の山奥へ行つたが、参・遠・信の三国に跨り、方五六里に亘つて、さうした山伏し村が多い。勿論、今は山伏しの影を止めてゐるに過ぎない。私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつり[#「花まつり」に傍線]は、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にと祝《コトホ》ぎする初春の行事なのだが、其態は舞踊であつて、なか/\発達してゐる。
何故、こんな山奥に、こんな舞踊が発達したか。其は決して偶然ではなかつたと考へられる。即、戦国の末に、彼等が勢力を貸した豪族の家々が、其後栄えたからである。歴史の表面では、彼等がどれだけの事をしてゐるか、殆ど記されてゐないが、断篇的の記録はある。三河には徳川氏と関係ある地方に居つた者が多くゐて、徳川氏が栄えて後、擁護を受けたからである。
彼等は、戦争に際しては、其等の家々に勢力を貸したのであつたが、また初春には恒例として、其等の家々、即、檀那の家へ出て来ては、祝福をして行つたのである。ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]としての、昔の記憶を忘れなかつたのである。
由来、日本の戦争には、法力の戦争が栄えた。旗・差し物なども、それから生れたものである。此には長い歴史があるが、其は略する。ともかくも、彼等が戦争に勢力を貸したといふのは、法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。
六 にせ山伏しとの結合
ところで、此、初春に里へ出て来る山人といふのは、日本には至るところにあつて、必しも参・遠・信の山奥とは限らない。思はぬ奥山家から、大黒舞・夷舞などが出て来る。彼等は、年に一度、暮れ或は正月になると、どこからともなく出て来て、或特定の村、即、檀那村を祝福して歩いては、またどこへともなく帰つて行く。「隠れ里」の伝説はこれから起つたので、更に「隠れ座頭」などの嘘噺も出来、又、偶然山奥へ迷ひ込んだものゝ中には、此等の芸人村のあることを発見して、山伏し以上の法螺を吹いたものもあつたりしたのであつたが、要するに、隠れ里の伝説が、単なる伝説上のものでなかつた事だけは考へられるのである。
此も「翁の発生」で触れて置いたことだが、芸人の団体には、山奥のものと、更にもう一つ、海の岬に根拠を置いて海道を歩いた、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]との二者があつた。併し、近世では、かうした芸人は、山奥のものに限られた。そして、此が本筋の山伏しだつたのであるが、鎌倉以後、戦国時代には、此をまねた、或は彼等の群に投じたにせ[#「にせ」に傍線]山伏しが横行するやうになつたので、此等のものが諸所の豪族の家々を頼つて、海道筋を上り下りし、其等の家々にとり入り、遂には、其にとつて替らうとさへしたのであつた。
七 すり[#「すり」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]・らつぱ[#「らつぱ」に傍線]
あまりに有名だから、名を出してもいゝだらう。蜂須賀家の祖先小六は、それの有名な一人である。彼が地位を得たのは、豊臣氏が栄えたからである。
彼等は、海道筋を上り下りする中に、一定の檀那(擁護者)を得たものが落ちつき、其を得ないものがうろつく。そして其中には落伍者が出来たので、其単独のものがすり[#「すり」に傍線]となり、団体的のものはすつぱ[#「すつぱ」に傍線]・らつぱ[#「らつぱ」に傍線]と言はれた。いづれも盗人職だつたのである。職人とは土地を持たないものを謂うたので、髪結ひを女工業と言うたなどは、職人の直訳とも見られる。ともかくも、当時はさうした盗人職・ごろつき[#「ごろつき」に傍線]職が厳然として存在してゐたのであつた。尤、現在だつて不思議な団体があつて、而も彼等は厳然として存在してゐるのである。
すり[#「すり」に傍線]は、すり[#「すり」に傍線]といふ道具をもつて歩いた団体だともいひ、旅人の旅具をすり替へることから、さう呼ばれるやうになつたのだとも言ふが、恐らくはほかひ[#「ほかひ」に傍線]・くゞつ[#「くゞつ」に傍線]などゝ同じやうに、旅行者の持つて歩いた
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