旅具からついた名だと思はれる。世人は、それを恐れてさう呼んだのであらう。後には、熟練を得て頗る敏捷なものになつたが、当時のは、もつと鈍なものだつたに相違ない。
すり[#「すり」に傍線]は、早くから単独の職業になつたが、すつぱ[#「すつぱ」に傍線]の方は――狂言では田舎人を訛す悪党で、すり[#「すり」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]と同じやうに言はれてゐるが――もう少し団体的のもので、親分を持つてゐた。そして更に、一層団体的だつたのが、らつぱ[#「らつぱ」に傍線]である。小六は即らつぱ[#「らつぱ」に傍線]の頭領だつたのである。当時は、かやうなものが幾つとなく、彷ひ歩いてゐた。尚、此外に、がんどう提灯[#「がんどう提灯」に傍線]に名残を止めた、強盗などもあつたのである。

     八 一二の例

押し借り強盗は武士の慣ひとは、後々までも残つた言葉であるが、当時は、実際にさうしたものが、諸民の部落を荒して廻つたので、山伏しも、陰陽師となつて、諸国に神道の祈りをして歩き、一方には、舞踊や唱歌をもした。其に交つた浪人者があり、其間に発達したらつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]もあり、荒すこと専門のらつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]があり、一方、海道筋をうろつくがんどう[#「がんどう」に傍線]連がある、と言うた訣であつた。
らつぱ[#「らつぱ」に傍線]の専門は、庸兵となつて、諸国の豪族に腕貸しをする事であつた。そして其処の臣となり、或は、即かず離れずの態度で、其保護をうける。其中に、其主家にとつて替つたなどゝ言ふのもあつた。
相模の後北条早雲の出身は確かでない。伊勢関氏の分れだと言ふが、同時に、其はらつぱ[#「らつぱ」に傍線]といふ事にならうかと思はれる。探りを入れて見ると、叡山・山王の信仰を伝へて歩いた山伏し、或は唱門師とも見られるので、戦国の頃、段々、東に出て来て、庸兵となつて歩いたらしい。妹が今川氏の妾(或は側室ともいふが)になつてゐたので、今川氏に頼り、それから段々、勢力を得た様にも言はれてゐるが、怪しいものである。妹を今川氏に入れるなどゝ言ふことは、後にも出来ることであり、殊に、彼等が豪族にとり入つたには、男色・女色を以てしたのが、一の手段でもあつたのだ。
ともかくも、祖先伊勢新九郎の出身は、宇治の山奥、田原であつて、其家は穴太《アナホ》であつたらしくもある。此が伊勢の関まで出てゐたのであらう。彼が最初に連れて出た家来と言ふのは、十人足らずであつたが、いづれも宇治地名を帯びた名を持つてゐる。早雲は、後に追々と勢力を得て、遂に、小田原に根拠を据ゑるやうになつたが、最初は、山伏しとなり、庸兵となりして歩いたものだと思はれる。
更に、古い例としては、小早川氏もさうのやうである。「小」といふ字の付くのは、嫡流に対する小流(妾腹)の意で、小田原在に早川といふ所があるが、土肥実平の分れであつて、山伏し系統の巡遊者となつたものだと考へられる。
これらは古い例であるが、近世には頗多い。併し、あまり名前を挙げて行くことは遠慮しよう。

     九 村落制度から生れた親分・子分

かやうに、鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。此が侠客の最初である。
何故、彼等は、さうならなければならなかつたか。此には考ふべきことがあると思はれる。若、彼等が単独であつたら、譬へ徳川の平定があらうとも、博徒にはならずとも済せたかも知れない。もう少しは、何とか身の振り方が着いたであらう。けれども彼等には多くの仲間があつた。彼等は、先、其等の仲間・子分の処置に困つた。
此処で、親分・子分のことを一言述べて置くが、彼等の親分・子分は、農村の制度からとつたのだと思はれる。農村には、親方筋・子方筋といふのが幾軒もある。其外檀那筋など言ふのもあるが、親方・子方となると、其子供は親方の養子分となる。出産があれば、戸籍吏に届け出る様に、親方へまで届ける。此親子の関係が、らつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]にもある。彼等の団体は、此村落の生活が基礎になつてゐた、と見られるのである。

     一〇 人入れ稼業の創始

徳川氏の方でも、天下をとつて、納まると同時に、先、困つたのは、彼等らつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]の連衆の処置であつた。此までは、助力を得たのであつたが、関个原・冬・夏の戦ひで、彼等には手を焼いてゐる。其が多勢の子分を連れてやつてくる。而も、彼等は法力を持つてゐる。ひと先、整理をつけなければならぬ時が来たのであつたが、其処置には、全く困惑したやうであつた。
かうして彼等のうち、織田・豊臣の時代までに、しつかりとした擁護者を得て、落ちつく事が出来なかつた者は、再、落ちつく機会を失つて了うたのであつた。
それでも、村落にしつかりとした基礎を持つてゐたものは、まだよかつた。即、彼等は、そこへ帰つて、郷士となつた。
又、彼等の中には、早く江戸を棄て、宗教の名を借りて、悪事を働いた高野聖の様なものもある。其後も、永く旅人を困らせたごまの灰[#「ごまの灰」に傍線]は、高野聖の一種であつた。高野でも、此には困つたので、非事吏などゝ、意味もないやうな名をさへ出したほどである。
彼等の中、最、困つたのは、江戸や大阪・堺などに未練を持つた連衆で、何と子分の始末をすべきか、其が大きな問題であつた。そこで、彼等は、其子分たちを、諸大名の家へ売りつけることを考へた。人入れ稼業は、かうして始つたのである。そして、彼等は所謂侠客となつた。親分・子分の関係は、前に述べた様に、農村の制度からとつたものであるが、今日人口に膾炙してゐる親分・子分は、此人入れ稼業から始つたと見ていゝ。有名な幡随院長兵衛の頃には、もうそんなことはなく、ほんとうの人入れ稼業になつてゐたのであらうが、古くは、其子分を大名の家に売りつけたのであつた。
其を「奴」といつた。奴の名は髪の格好から出たものと思はれる。鬢を薄く、深く剃り込んだ其形が、当時ははいから[#「はいから」に傍線]風であつたのだ。そして、其が江戸で流行を極める様になつた。町奴の称が出来たのは、旗本奴が出来たからであつて、もとは、かぶきもの[#「かぶきもの」に傍線]と言うた。旗本奴もかぶきもの[#「かぶきもの」に傍線]・かぶき衆[#「かぶき衆」に傍線]などいはれたのであつた。併し、後には、此二者が交錯して、かぶき[#「かぶき」に傍線]の中に奴が出る様なことにもなつたのであつた。

     一一 かぶき[#「かぶき」に傍線]とかぶき踊り[#「かぶき踊り」に傍線]と

かぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ語が、文献に現れたのは古いが、直接後世と関係したのが見えて来るのは、室町時代からだと思ふ。乱暴する、狼藉する意に用ゐられたのだが、古い用語例らしい。此語の盛んに用ゐられた一つの中心は、桃山時代であつた。当時は、事実此風が、盛んに行はれもしたのであつた。
阿国の念仏踊りを、かぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ様になつたのは、彼女には、いろ/\な演芸種目があつて、其一つに「かぶき踊り」と言ふのがあつたのだと思ふ。
当時の貴族・豪族たちは、何でも、異つたものに目を止めた。阿国も、さうして認められた一人だつたのだ。彼女が京に出て来て、五条の橋詰め・北野の東などに舞台を構へた時に、此等の大名たちは、直に其に目を止めた。彼女が頭を擡げて来たのは、さうした擁護者を得る事が出来たからだつたのである。
彼等の芸を、何故かぶき[#「かぶき」に傍線]と言うたかと言へば、彼等の持つてゐた演芸種目の中に「いざやかぶかん、いざやかぶかん」と言うて踊る踊りがあつて、其から名づけられたものだと思ふ。阿国の演芸では、阿国と名古屋山三との問答があり、それから「いざやかぶかん」になるので、此をかぶき踊り[#「かぶき踊り」に傍線]と言うたらしい。

     一二 幇間の前駆

かぶき踊り[#「かぶき踊り」に傍線]の起原は、名古屋山三が教へたとあるが、山三が阿国に教へたのは、早歌であつたらう。山三は、幸若の舞太夫だつたと思ふ。
当時は、幸若舞の最盛んな時代だつたので、舞ひと言へば幸若舞の事を言ふのであつた。其他、舞々・舞太夫、すべて幸若に関したものを言うたのであつた。幸若舞は、千秋万歳に系統を持つ曲舞から出たので、曲舞のうち、武家に好まれたものが、即、幸若舞であつた。随つて、幸若舞には、武張つたものが多い。併し、もと/\、幸若は社寺の芸術だつたのである。
伝説によると、山三は、蒲生氏郷の寵を受けた、当時有名の美少年だつたとあるが、其見出される迄は、建仁寺の西来院に居つたともある。当時、有名な美少年としては、彼の外に、もう一人、秀次の愛を受けた、不破伴作があつた。併し、もと/\、彼等は、ごろつき[#「ごろつき」に傍線]だつたのである。山三は、蒲生家から浪人して後、諸国を廻つたとあるが、彼等は、さうして、主君にありついた時には、其酒席に侍つた。男色は彼等が主君にとり入る一つの手段だつたのである。
すつぱ[#「すつぱ」に傍線]と同じやうな意味を含んだ語に、しよろり[#「しよろり」に傍線]といふものがあつた。やはり、諸国を流浪し、豪族たちの庸兵となつたので、其まゝ臣下となつたものもあつたが、多くは、一時的の臣だつたのである。併し、しよろり[#「しよろり」に傍線]・そろり[#「そろり」に傍線]の語から考へて、此は後の幇間の前駆をなしたもの、と見ることも出来ると思ふ。
日本には、幇間的職分を持つたものは、古くからあつた。王朝時代、貴族に仕へた女房たちの為事と言ふのは、そこの子弟を教育するのが、主なるものとなつてゐたのだが、其教育は、なか/\行き届いたもので、時には、其娘や息子たちの為に、艶書の代筆などをもやつてゐる。此が、後には、男で文筆あるものが替つてやるやうになつた。隠者の文学は、そこから発生した。兼好法師が、師直の為に艶書の代筆をしたといふのは、事実であつたらう。当時では、決して、珍しいことではなかつたのである。
尚、此外に、奴隷から出て、君側に侍つたものがあつた。併し、戦国時代には、すつぱ[#「すつぱ」に傍線]・しよろり[#「しよろり」に傍線]などが侵入して、いつか、此等のものとの間に、歩み寄つた生活をしてゐた。何故、彼等が、其等のものとの間に歩み寄つた生活を為し得たかに就ては、考ふべき点があると思ふ。

     一三 異風・乱暴の興味

阿国歌舞妓は、念仏踊りの一変化したもので、幸若舞に系統を持つ、謂はゞ、山三の芸の濃いものであつた。そして、此は初代の阿国の時あつたものではなく、二代の阿国が舞ひ出したのだと思ふ。其訣は、前にも言うた様に、かぶき踊り[#「かぶき踊り」に傍線]は、阿国と、山三の亡霊との間に問答があり、それから「いざやかぶかん」になる。此事実からも考へられると思ふのである。
かぶかん[#「かぶかん」に傍線]とは「あばれよう」と言ふ事である。即、舞ひに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、此が六法《ロツパフ》となつて残つてゐる。尚、六法は、前に言うたかぶき者[#「かぶき者」に傍線]の別名ともなり、其一分派には、丹前など言ふものも出来た。共に、あばれ者[#「あばれ者」に傍線]であり、伊達な風をして、市中を練つて歩いたのであつた。「六法はむほふ[#「むほふ」に傍線]とも訓むべし」など言ふやうになつたのは、恐らく、彼等の、さうした行動から出たものであつたらう。
併し、六法は、其以前からもあつた。室町の中期頃に、六法々師と言ふものがあつて、祭礼に練つて歩いた。
京の街では、早くから、祇園祭に異風の行列が流行つた。これのはつ
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