きりして来たのは、室町からであつたが、既に、其以前、平安朝に於ても、其風はあつたのだ。さうして、これの愈発達して来たものが、風流《フリウ》であり、六法である。彼等は、仮装をして、盛んに暴れ廻つた。当時としては、其がはいから[#「はいから」に傍線]であり、さうして人目を驚かすことに、社会一般の興味があつたのだと思ふ。彼等は、好んで外国渡来の品などを身に著けた。かうした、異風・乱暴は、其がまた、性欲的でもあつたのだ。当時は、異風と荒つぽいことに性欲を感じたのである。
此等の傾向は、其後、歌舞妓芝居の舞台に、長く残つた。大帯なども、其一つと見られるのである。
一四 歩く芸
戦国時代から徳川の初期へかけては、諸大名の中にも、さうした異風を好み、此をまねたものが少くなかつた。織田信長なども、其一人であつた。
当時は、社会一般が、異風といふことに、興味の中心を置いてゐたので、文芸・芸術もまたさうであつたと言へるのである。風流・六法は、さうして出来たものであつた。
風流は、後には、飾りもの[#「飾りもの」に傍線]ゝ名の様になつて了うたが、元来は、異つた扮装をする事を言うたのである。異つた扮装をして、祭礼などに練つて歩いた。此が多少の変化を来して、動作が主になつたものが、六法であり、それの分派がかぶき[#「かぶき」に傍線]であり、それから「奴」が出来、徳川中期には「寛濶」などゝ言ふものも出来たのだが、もと/\此等の芸は、風流系統のものである。だから此等の芸は、後々までも、歩く芸――練つて歩く芸、謂はゞ祭礼のくづれ[#「くづれ」に傍線]――として残つたのであつた。
芝居の六法は、かう考へて見るとき、あの特別な歩き振りにも、一つの意味が発見されようと思ふ。
一五 幸若の影響
歌舞妓芝居では、元禄以後になつてからでも、平気で舞台を歩く芸があつた。若衆の出て来る芝居などにも、舞台を散歩してゐる様なものがあつた。奴をつれて「いゝ花ぢやなあ」といつた調子で、舞台を散歩してゐるのである。尤、此には、顔を見せるといふ事があつた。此も見逃せない事の一つであるが、歌舞妓を散歩芸として眺めるのには、尚、他にも考ふべき事があるので、譬へば、道行きには「舞ひ」の手ぶりがある。即、幸若が割り込んで来たからである。
元来、幸若の舞ひぶりなるものは、地固めの舞ひ(即、反閇《ヘンバイ》)から生れたもので、足ぶみをして舞ふものなのである。歌舞妓は、これから変化したものであつて見れば、愈、散歩芸・足の芸とならざるを得なかつたわけである。かういふわけで、散歩芸にも其起りがある。風流・六法・丹前・奴・寛濶――此等はいづれも皆歩く芸であつたのである。
歌舞妓芝居はそれから生れたのだが、尚、此には、狼藉の所作振りと、人目を驚かす異風とがとり入れられた。勿論、此にも、理由はあるので、前にも言うた様に、かぶく[#「かぶく」に傍線]とはあばれる[#「あばれる」に傍線]事であつた。かぶき者[#「かぶき者」に傍線]・かぶき衆[#「かぶき衆」に傍線]とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。後には、あぶれ者[#「あぶれ者」に傍線]など言ふ語をさへ生む様になつた程で、もと/\彼等はごろつき[#「ごろつき」に傍線]だつたのである。山三が、津山で切り死にをしたといふのも、彼があばれ者[#「あばれ者」に傍線]だつたからである。団十郎が、舞台で殺されたのにも、さうした関係があつたのだと思ふ。荒事などゝ言ふものが演じられたのも、決して偶然の発生ではなかつたに相違ない。此乱暴狼藉は人形にまで影響した。即、金平ものゝ発生が其である。
一六 遊女を太夫と言うた訣
かやうに当時は、乱暴・異風が、社会の興味の中心となつてゐた。それから歌舞妓のやうな芸術も生れた訣だが、此風潮は啻に、男の世界ばかりに見られたのではない。女の方にも、やはり、それがあつた。吉原其他の色街に於て見られたのである。
元来、吉原・島原の遊女を、何故太夫と言うたかと言へば、彼等は元は、幸若の女舞太夫だつたからだと思ふ。そして当時は、此女舞太夫が非常に流行を極めた。其訣は、男は一般に見識を持つて、あまり舞はなかつたが、女の方は激しく此舞ひを舞うて、それが世間に受けたのだと思ふ。
彼等は、それ/″\座を持つてゐたので、最初は、市内の彼方・此方で演じてゐたのだが、遂に吉原に押し込められるやうになつた。
それでも彼等は、時を定めて、此を演じた。其が受けたので、追々これをまねるものが出来、彼等も亦、太夫を称へる様になり、遂に、此が遊女の称とさへなつたのである。
併し、彼等が最初、座を持つてゐた時には、村々によつて、其が違うた。随つて、彼等は、其等の村々の方言を持つてゐた。ざます[#「ざます」に傍線]・ありんす[#「ありんす」に傍線]は、即、其形見と考へられるのである。而も、此言葉は、新吉原になつて後も、長く廓《サト》言葉として、保存されることになつたのであつた。
一七 八文字は女六法
それはとにかく、彼等が男のかぶき[#「かぶき」に傍線]・六法の、直接の影響を受けたと見られるものは、道中に見せた八文字である。八文字は明らかに女の六法であつた。
此が嵩じては、かの一中に謡はれた、勝山に迄なるので、一中節では、彼女が道中の途次、湯巻を落したが、其まゝ道中を続けたと言うて、大いに此を讃美してゐる。我々から考へれば、どこに其ほど讃美する価値があるのか、と思ふのであるが、要するに、当時としては、其が女六法にかなつてゐた。そして其が、性欲的でもあつたのだ。
いき[#「いき」に傍線]・はり[#「はり」に傍線]など言うても、もはや今日では、訣らぬものになつて了うたやうだが、所詮、女性と男性との意志の一緒になつたものである。
かうした気風は、吉原だけに見られたのではない。京の島原・大阪の新町、此等の廓《サト》にもあつたのだ。此様にかゝる方面にまで、ごろつき[#「ごろつき」に傍線]・あばれもの[#「あばれもの」に傍線]ゝ影響があつたのである。
一八 美的な乱暴
以上述べて来た様に、歌舞妓芝居の起るまでには、従来考へられてゐたものゝ外に、かうしたあぶれ者[#「あぶれ者」に傍線]・乱暴者の生活から発生してゐると言ふ事実があり、尚、直接の原因としては、幸若の舞太夫の扶持を離れたものが、民間に下つたと言ふことがある。
そして、此二者が相寄つて、美的な乱暴を創始した。美的とは言うても、其は美学的見地からのものではない。尤、中には「助六」の様な美しくて、力のあるものもある。殊に、当時の、さうした風潮を念頭に置いて此を見るならば、団十郎の此を作つた気持ちは、容易に訣ると思ふのである。
かやうに、かぶき[#「かぶき」に傍線]・かぶく[#「かぶく」に傍線]と言ふ語の、元の意味は、乱暴する・狼藉するといふことであつたので、歌舞妓芝居はそれから生れたのであるが、もはや今日の歌舞妓には、さうした元の意味は、殆ど無くなつて了うてゐる。併し、今日でも、全然それが無くなつてしまつたとは、言はれない。
譬へば、日本の芝居には、濡れ場・殺し場など言ふ、残虐な或は性欲的な場面が少くない。学者の中には、此は日本の国民性に合はない、不思議な挿入物だ、と言ふ様に見てゐる人もある。坪内・藤岡両博士の御意見も、さうの様であつたと記憶するが、此なども、以上述べたやうな、これの発生・源流に就て考へて見るならば、一応の解釈はつくと思はれる。
勿論、さうしたことは、時代の好尚、其他の事情によつて、特に、病的に発達して行くこともある。
しかし、歌舞妓芝居にあつては、既に、其起りが、乱暴・異風――そして、それが性欲的であつた――を採り入れた芸術なのであるから、さうしたこと――残虐的、或は、性欲的な場面――が、多分にあつたとしても、其は、必しも、不思議とするには当らないのである。
一九 「士道」と「武士道」と
大体、今日一般が考へてゐる道徳なるものは、歴史的に見て、此がどれだけの価値を持つてゐるか、一考を要すべき点があらうと思ふ。
今日、一般が考へてゐるところの、所謂武士道なるものは、大体、徳川氏の世になつて概念化されたものである。徳川氏は、天下を取ると同時に、先、儒教によつて一般を陶冶しようとした。即、謀叛・反抗をしてはならぬといふ、道徳的陶冶をなすべく、最初は、此を禅僧に謀つたのであつた。山鹿素行などの一流の士道なるものは、其後に出来たのである。
武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考へねばならぬ。素行以後のものは、士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし[#「野ぶし」に傍線]・山ぶし[#「山ぶし」に傍線]に系統を持つ、ごろつき[#「ごろつき」に傍線]道徳である。即、変幻極まりなきもの、不安にして、美しく、きらびやかなるものを愛するのが、彼等の道徳であつたのである。だから、彼等の道徳には、今日の道徳感を以て考へては、訣らないやうなものもある。
二〇 気分本位の生活
一例を挙げるなら、北条早雲が三浦荒次郎を攻めたとき、三浦の城が落ちると聞くや、早雲の家来十幾人は、三浦方の方を向いて、割腹した。此は嘗て、三浦方に捕はれたとき、彼方で好遇を受けた其恩に感じたのだと言ふ。今日、それだけの雅量あるものが、果してあらうか。
後世の侠客・ごろつき[#「ごろつき」に傍線]の中には、多少それに似た道徳感が流れてゐた。睨まれゝば、睨み返すのが、彼等の生活であつた。即、気分本位で、意気に感ずれば、容易に、味方にもなつたが、また直に、敵ともなつた。我々が、多少でも、かうした気分を味ひ得たのは、釈場に於てゞあつたが、それも、今日では極めて淡いものになつてしまうた。時代々々の道徳の力は、あらゆるものを変化せしめずには置かない。同時に、時代々々の文芸・芸術は、此と交渉なしには生れない。現代の道徳は立派であると言へよう。だが、今日では、多少、それが固定したと思はれる。随つて、感激性を失つた。
現代の文芸・芸術が、此を重視しなくなつたのには、さうした理由があるのだと思はれる。
二一 結び
話が、かなり岐路に分れたと思ふが、要するに、日本のごろつき[#「ごろつき」に傍線]には古い歴史がある。而して、鎌倉以後は、此が山伏しと結びつくやうになつて、著しく社会の表面に顔を出す様になつた。法術を利用して、大名にとり入るやうになつたからである。
併し、彼等が根拠地としたのは山奥で、常には、舞ひや踊りを職業とし、年の始めには、檀那の家々を祝福して廻りもしたので、其中には、山奥に残るものもあり、里に出て来たものもあり、里に出て来たものゝ中には、大名となり、また其臣下となつたやうなものもあつたが、遂に、其機を逸したものは、徳川の初期に於て人入れ稼業を創始して、大名・旗本に対しても、横柄を振舞つた。
歌舞妓芝居は、彼等の間に生れた芸術で、それには幸若舞が与つて、大きな力を致してゐる。
歌舞妓芝居は、其後非常な発達をして、もはや、昔の俤は止めぬほどになつてしまうたが、それでも尚、此等の、発生当初のものとの関係は、全然、別れ切りにはならなかつた。其間に纏綿たるものゝあつた事は考へなければならぬ。
尚、無頼の徒の芸術には、文学方面にも、言及すべきものがある。
日本の文学は、王朝時代に於ける女房の文学に始まり、次で隠者の文学が起り、此にごろつき[#「ごろつき」に傍線]の文学が提携し、此等のものゝ洗礼を受けて生れたのが、即、江戸時代の町人文学である。此等の点については、いづれ細論する日もあらう。茲には無頼の徒の芸術として、歌舞妓芝居の発生を述べた。大体、其特色は尽した積りである。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗芸術 第一巻第八・九号」
1928(昭和3)年8、9月
※「昭和三年春、神奈川県図書館協会主催文芸講演会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書か
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