。
何故、彼等は、さうならなければならなかつたか。此には考ふべきことがあると思はれる。若、彼等が単独であつたら、譬へ徳川の平定があらうとも、博徒にはならずとも済せたかも知れない。もう少しは、何とか身の振り方が着いたであらう。けれども彼等には多くの仲間があつた。彼等は、先、其等の仲間・子分の処置に困つた。
此処で、親分・子分のことを一言述べて置くが、彼等の親分・子分は、農村の制度からとつたのだと思はれる。農村には、親方筋・子方筋といふのが幾軒もある。其外檀那筋など言ふのもあるが、親方・子方となると、其子供は親方の養子分となる。出産があれば、戸籍吏に届け出る様に、親方へまで届ける。此親子の関係が、らつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]にもある。彼等の団体は、此村落の生活が基礎になつてゐた、と見られるのである。
一〇 人入れ稼業の創始
徳川氏の方でも、天下をとつて、納まると同時に、先、困つたのは、彼等らつぱ[#「らつぱ」に傍線]・すつぱ[#「すつぱ」に傍線]の連衆の処置であつた。此までは、助力を得たのであつたが、関个原・冬・夏の戦ひで、彼等には手を焼いてゐる
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