から生れたもので、足ぶみをして舞ふものなのである。歌舞妓は、これから変化したものであつて見れば、愈、散歩芸・足の芸とならざるを得なかつたわけである。かういふわけで、散歩芸にも其起りがある。風流・六法・丹前・奴・寛濶――此等はいづれも皆歩く芸であつたのである。
歌舞妓芝居はそれから生れたのだが、尚、此には、狼藉の所作振りと、人目を驚かす異風とがとり入れられた。勿論、此にも、理由はあるので、前にも言うた様に、かぶく[#「かぶく」に傍線]とはあばれる[#「あばれる」に傍線]事であつた。かぶき者[#「かぶき者」に傍線]・かぶき衆[#「かぶき衆」に傍線]とは、異風をしてあばれ廻つた連衆のことである。後には、あぶれ者[#「あぶれ者」に傍線]など言ふ語をさへ生む様になつた程で、もと/\彼等はごろつき[#「ごろつき」に傍線]だつたのである。山三が、津山で切り死にをしたといふのも、彼があばれ者[#「あばれ者」に傍線]だつたからである。団十郎が、舞台で殺されたのにも、さうした関係があつたのだと思ふ。荒事などゝ言ふものが演じられたのも、決して偶然の発生ではなかつたに相違ない。此乱暴狼藉は人形にまで影響した。即、金平ものゝ発生が其である。

     一六 遊女を太夫と言うた訣

かやうに当時は、乱暴・異風が、社会の興味の中心となつてゐた。それから歌舞妓のやうな芸術も生れた訣だが、此風潮は啻に、男の世界ばかりに見られたのではない。女の方にも、やはり、それがあつた。吉原其他の色街に於て見られたのである。
元来、吉原・島原の遊女を、何故太夫と言うたかと言へば、彼等は元は、幸若の女舞太夫だつたからだと思ふ。そして当時は、此女舞太夫が非常に流行を極めた。其訣は、男は一般に見識を持つて、あまり舞はなかつたが、女の方は激しく此舞ひを舞うて、それが世間に受けたのだと思ふ。
彼等は、それ/″\座を持つてゐたので、最初は、市内の彼方・此方で演じてゐたのだが、遂に吉原に押し込められるやうになつた。
それでも彼等は、時を定めて、此を演じた。其が受けたので、追々これをまねるものが出来、彼等も亦、太夫を称へる様になり、遂に、此が遊女の称とさへなつたのである。
併し、彼等が最初、座を持つてゐた時には、村々によつて、其が違うた。随つて、彼等は、其等の村々の方言を持つてゐた。ざます[#「ざます」に傍線]・ありんす[#「あ
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