つてゐた時の日記である。随筆と言ふものは、ある品格が必須条件である。其為にこそ、学者風格もあつてほしくなるのである。此にはさうした所が、好しいまでに出てゐる。堀君がさうして歩いてゐる間に、高畠の村陰に、崩れた築地を見出した。其がふと、王朝時代の零落した貴族邸の幻影を呼び出す――曠野を書く機縁に行きあたつたのである。思へば此頃は、中年に入つて後、堀君の最幸福な日々が、続いてゐたものと言はれよう。
十月大和に遊んでその十二月、寒くなつた冬に、又旅を思ひ立つて、奈良ほてるに行つた。此時は、天武・持統両天子合葬陵だと伝へられた五条野の墓の辺までへも行つてゐる。又は、山城へ越えて、瓶原《ミカノハラ》宮阯あたりまで出かけた。「暫らく誰にもあはずに、山の方に歩いてゐると、突然、上の方から蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たちが、きやつ/\と言ひながら、下りて来るのに驚されたりしました。長いこと、山国の寒く痩せさらばうたやうな冬にばかりなじんで来たせゐか、どうしても僕には、こゝはもう、南国に近いやうに思はれてなりませんでした。」かう言ふ、文章すら、静かな幸福に満ちてゐる。
今昔物語本朝部の記述は、民間に伝承せられたものが、其まゝはじめて筆にのつたものもあつたであらう。平安時代もそこまで来ると、余程、複雑になつてゐる。伊勢物語との距離は精確にはわからぬが、実際は大した年代を経てゐないのであらう。大きく見積つて二百年には足らぬ年月だと思ふ。伊勢には極めて簡単に伝へてゐる物語が、今昔では、此様に育つてゐる。さう言ふ気のするものもあつた。殊に「曠野」にとりあげた原話などは、さう思はせられる。はつきりと同じ物語の、古い形と、新しい形だとはきめられぬのが、伝説文学の常なのである。伊勢には二つあつて、二つながら、今昔のとは、初めが違つてゐて、再会の所からがおなじ様になる。その片方は、殆同じ歌をとり入れてゐる。だが、歌が大体おなじだからと言つて、同じ伝へだとは言はれない。せい/″\どちらも、近江の国の古伝承だと言へばそれでよい、と言ふ位のものである。
男女の生き別れ[#「生き別れ」に傍点]の悲しさは、今の人の思ふよりも、もつと悲惨な現実として昔は屡あつたことらしい。昔物語には、其を、いろ/\に伝へてゐる。棄てゝ行くのもあるが、話しあひ[#「話しあひ」に傍点]の別れの後日談が多いのは、もう王朝にも、悲しい物語を聞いて、人生を深めたい、と言ふ寂しい望みが、女にも男にも起つてゐたからであらう。別に亦、「曠野」の前段と似たのもあつて、もう王氏とも言へぬほど遠くなつた孫王の末の娘御が、遠くへ行つた男とめぐりあつて、あつたと思ふと死んで行く。場処もあさましい土の床であつた。さうした思ふにも堪へ難い話などが幾つもあつた世の中である。更級日記の作者は、あんな風だつたけれども、よい事には、生れ年が訣つてゐる。堀君の同情を持つて書いた、も一人の女性、「かげろふの日記」を書いた人が亡くなつたのは、其より十三年前に当つてゐた。
堀君と会つた頃は、「かげろふの日記」を心に持つて居られたらしい。其で、いろんなさし出がましく聞える話などはしなかつた。勿論その時分既に、その後篇とも言ふべき、「ほととぎす」の部分も発表になつてゐた。原作が難解なと言ふより、日本の中世の女ぶみ[#「女ぶみ」に傍点]が、如何に書き綴られて、こんな表現をするのか、我々は昔から、其理由を解きかねて来た。其を堀君は、ちつとも読む人の心を混濁させることなく、書き方は原文から、一間づゝ遅らせるといふ行き方で、考へは其に反して、一間もふた間も進めて行つてる、と言つたぐあひ[#「ぐあひ」に傍点]に書きあげてゐる。事実、私は驚嘆した。堀君の詩人としての才能の上に、更に何かゞあることを感じて、尊敬を新にしたのは、其為であつた。
底本:「折口信夫全集 32」中央公論社
1998(平成10)年1月20日初版発行
初出:堀辰雄著「かげろふの日記・曠野」解説
1951(昭和26年)年7月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十六年七月、堀辰雄著「かげろふの日記・曠野」解説」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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