介、この人の王朝は、今昔物語式には最的確な王朝物は書いたけれど、源氏・伊勢が代表する平安朝の記録と言ふところには達しなかつた。堀君は心虚しうして書く人だけに、極めておほまか[#「おほまか」に傍点]にではあるが、おほまか[#「おほまか」に傍点]だけに、王朝貴族の生活のてま[#「てま」に傍線]を適切に捉へることが出来た。源氏の論文を書いた人の中には、私の尊敬してゐる人々が多いが、その方々にも、堀君の「若菜の巻など」は、是非読んで頂きたいと思つてゐる。其ほど、源氏の学史にとつては、大きな提言をしてゐる。
「伊勢物語など」は、堀君の詩人としての権威を、感じさせる文章である。りるけ[#「りるけ」に傍線]のどういの[#「どういの」に傍線]の悲歌を引いて、神に似た夭折者を哭し、その魂を鎮めようとする考へ方をひき出して来てゐる。その点は、古代日本人に似てゐるが、又違ふ。西洋人のやうに、其を自分の慰め・救ひとするのではなく、たゞ人の魂を鎮めることにしてゐたと言ふあたり、……併しどちらにしても、此鎮魂的なものが、一切のよい文学の底にあることになる。
「更級日記」の作者は、感覚がむやみに発達して、時としては、表現する語をのり越えて、溢れてゐるやうにすら見える。其結果心剰つて語及ばず、とでも評せられさうな所のあつた人だが、堀君の之に対する触れてゆき方には、変つたものがある。少年の日から愛著した信濃の土地――それへ来ないで、その山国に暮す夫を待つてゐる都女としてばかり、作者を手放して置くことの出来なくなつた堀君は、古い魂の因縁を説いてゐるのである。更級の女は其未生以前、既に一たび世に現れて、「わが心なぐさめかねつ。更級や、姨捨山に照る月を見て」あの古歌を詠んで過ぎた、過去の人でもあつた気を起させられる。小説を読む人たちの中にも、やはりさうした作家につき添ひ、作家に先立ちして行く、読みの深さを持つた人の出て来ることが必要である。でないと、いつも作家ばかりが進んでゐて、読者は、その啓蒙を受けて行くばかりである。堀君のかう言ふ作物群に触れると、もうさう言ふ読者も出て来てよいと思ふ。
堀君は、自分の親しい信濃に、作者の生活をも立ちまじらしたかつたのだ――かう言つてゐるが、私どもにはも一つ、その心の底に、しづいて[#「しづいて」に傍点]輝くものゝあるのが見える。若い時から愛読してゐた更級日記の女が、段々年たけて、親を養ふ様などを思うて、堪へられなかつたであらう。此時分の受領《ズリヤウ》の妻の生活は、そんなに幸福なものではなかつた。男こそ、宮廷・大貴族に仕へるさう言ふ女房を、客分のやうにして迎へて、そのぷらいど[#「ぷらいど」に傍線]に輝く思ひあがつた姿を、任国の人々の目に、ほのめかしてやるだけでも、天に上る気持ちがしたものであらう。だからさう言ふ夫や、家人《ケニン》にとり捲かれた有頂天な喜び、反省などは都に置き忘れて来たやうな生活をさせてやりたかつたのであらう。事実夫が信濃の国府(今の松本近辺)へ下るのに、誘はれなかつた彼女の生活が、その後豊かになつた風も見えなかつた。如何に平安朝も末に傾いてゐたと言つても、まだ院政時代にさしかゝつたゞけの時代で、都人が、花の様な世の中を楽しんでゐるに十分だつた。ひとり醒めたやうに、この女性は、時々遠国の夫から送りとゞけられる信濃の山づとを、つまらなさうに見てゐたであらう。其をもつと幸福にしてやりたかつたのだ。
堀君はちつとも、自分を世の常の人に変つた人間だと思はれようとしない人である。若い頃からさうだつたから、我々は感心する。名ある野山を歩いて、其名所旧蹟を眺めることを喜ぶ素直さの一方に、其野山の間の窪地や、岡の陰に、誰の心にもとまらなかつた所を見つけて、腰をおろす。そこにゐて、耳を澄し、息を整へて、名もない所の心やすさをたのしむ静かな心――。さう言ふ所のあつた人だ。
「黒髪山」を見て、「ホトトギス」の写生文の栄えた時代を、何となく思ひ出した。併しつく/″\思ふと、「ホトトギス」の作者たちは、虚子・漱石から、四方太・三重吉に到るまで、皆何かえらさ[#「えらさ」に傍点]があつて、人を安んじさせなかつた。堀君に思ひ比べると、其がまざ/\感じられる。同行の神西さんが東京へ帰つてから、名もない山の中を歩いてゐる。古代人が幻想したやうに、木の葉を一ぱい浴びた姿の死者となつて、佐保山の奥に、ほんたうに自分自身が迷ひ入つたやうな感じを書いてゐる。しかしどこまで行つても、山は明るかつた。明るいなりに、山は無気味にしいんと[#「しいんと」に傍点]してゐた。さうして暫らくして、又物音のする村里へ出て来る。
奈良ほてるの、荒池を眺める部屋を出て、近在を廻り、気が向けば随分遠くまで踏み出す気にもなるといふ、神無月柿の熟する頃、堀君の健康が、調子よく行
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