蒜と五百本からの竹藪が出現しようと言ふのかも知れない。竹藪だけにしても、神の示す「ほ」としての意味のものだと知れよう。天の玉串なども、「ほ」の考へから出たものでないかと思はれるのである。此には「ほ」と言はずに、「まち」と称してゐる。卜象《ウラカタ》の「まち」なる語に訳してゐるのである。「まち」は実はさして古い語ではない。「ほ」の用語例が忘れられてから、いつの間にかとり換へられたに違ひない。此伝へなども、天神たちが教へた語と言ふのは合理的になつてゐると見られよう。あめのおしくもねの[#「あめのおしくもねの」に傍線]命が神を祷ると、天の玉串が忽然と現れた。其串の自ら択ぶ地上にさし立てゝ、天つのりとの太のりと詞《ゴト》を申してゐたら、若ひるに五百篁が出現した。かう解すれば、「しゞま」の神の示す「ほ」の様子が知れよう。
「ほ」と卜象との関係は後で説くが、さうした物質を「ほ」とする外、ある動物又は人間を以てし、又其等のある時の状態を以て暗示する事がある。垂仁天皇の時、ほむちわけの[#「ほむちわけの」に傍線]皇子が出雲へ向ふのに、三つの道の何れをとらうかと言ふ事になつて、「ふとまに」卜ふと、本道になつてゐる二道では、跛《アシナヘ》・盲に出くはすだらう。だから紀州路は脇道ではあるが縁起のよい道だと出たので、其によつたとある。此も実は訣らぬ話で、跛盲に逢ふと、其道は呪はれてゐると言ふ心あたりを得たのであらう。さうした経験の積み重《かさな》りから、かうした逆の言ひ方が生じたものと思ふ。更に此より先、出雲大社に詣でるのが果して神の意かどうかを問ふのに、あけたつの[#「あけたつの」に傍線]みこは、甘橿《アマカシ》の丘《ヲカ》の鷺が落ちたら神の意思と信じると言ふ約束をたてゝ置いて鷺をおとし、又其を飛び立たせ、熊橿の葉を枯らしたり蘇らしたりして、神の意思を試してゐる。此はうけひ[#「うけひ」は罫囲み]と言ふ神意を問ふ様式で、どちらかをきめる場合の方法である。此が一転すると、一極《イチギ》めの方法になるし、又一方既に占ひの方に踏みこんでゐる様である。「うけふ」は承ふ(ウゲガフ)と言ふ語の古い形で、承《ウ》くを語根としたものだ。神がいづれを承けひいてくれるかと其肯否を問ふのである。二つ以上の条件を立てゝ、神の選択に随ふ神判を請ふ手段である。だから、此れが一転して神の保証によつて、自分の心を示す誓
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