、神の声色を使うて家々を廻るのである。海のあなたから渡来した神に扮して居る訣である。村人も此秘密の大体には通じて居ながら、尚仮装したまやの神なる若衆の気分と同様、遊戯の分子は少しも交らぬ神聖な感激に入る事が出来るといふ。併し、段々厳粛な神秘の制約が緩んで来ると、単なる年中行事として意味は忘れられ、唯戸におとづれる[#「おとづれる」に傍線]音ばかりを模して、「ほと/\」など言うて歩く。徒然草の四季の段の末の「東ではまだすることであつた」と都には既に廃れた事を書いた家の戸を叩いて廻る大晦日の夜の為来りが、今も地方々々には残つて居る。此は、柳田国男先生が既に書かれた事である。
常世の国は、我が記録の上の普通の用法では、常闇の国ではない。光明的な富みと齢の国であつた。奈良朝になると、信仰の対象なる事を忘れ実在の国の事として、わが国の内に、こゝと推し当てゝ誇る風が出て来た様である。常陸を常世の国だとしたのも其一例である。唯海外に常世を考へる事は、其から見れば自然である。田道間守《タヂマモリ》がときじくの―かぐのこのみ[#「ときじくの―かぐのこのみ」に傍線]を採りに行つたと伝へのある南方支那と思はれる地方は、かくの如き木の実の実る富みの国であつたのだ。けれど、此史実と思はれる事柄にも、民譚の匂ひがある。垂仁天皇の命で出向いたのに、還つて見れば待ち歓ばれる天子崩御の後であつたと言ふのは、理に於て不合な点はないが、此は常世の国と我々の住む国との時間の基準が違うて居る他界観念から出来た民譚の世界的類型に入るべきものが、かう言ふ形をとつたと見る事も出来る。浦島[#(ノ)]子の行つたのも、常世の国である。此は驚くべき時間の相違を見せてゐる。而も、海のあなたの国と言ふ点では一つである。此話は、飛鳥の都の末には、既に纏つてゐたものらしいが、既にわたつみ[#「わたつみ」に傍線]の宮と常世とを一つにしてゐる。海底と海の彼方とに区別を考へないのは、富みと齢との理想国と見たからだらう。
常世を一層理想化するに到つたのは、藤原京頃からと思はれる。道教の信者の空想する所は、不死・常成の国であつた。其上、支那持ち越しの通俗道教では、仙境を恋愛の浄土と説くものが多かつた。我が国の海の中の国に、恋愛の結びついたほをりの―みこと[#「ほをりの―みこと」に傍線]の神話がある。此が、浦島子の民譚と酷似して居るに拘らず違うてゐるのは、時間観念に彼此両土に相違のない事である。常世の国と言はれた海のあなたの国の中には、わたつみ[#「わたつみ」に傍線]の国を容れなかつた時代があるのかとも考へる。けれども富みの方では、大いに常世らしい様子を備へてゐる。海驢《ミチ》の皮を重ねて居る王宮の様などに、憧れ心地が仄めいて居る。歓楽の国に居て、大き吐息《ナゲキ》一つしたと言ふのは、浦島子にもある形で、実在を信じた万葉人は、「おぞや此君」と羨み嗤ひを洩すのであらう。ほをりの―みこと[#「ほをりの―みこと」に傍線]の帰りしなに、わたつみ[#「わたつみ」に傍線]の神の訓へた呪言「此針や、おぼち・すゝち・まぢゝ・うるち」と言ふのは、おぼ[#「おぼ」に傍線]は茫漠・鬱屈の意の語根だから此鈎でつりあげる物は、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍線]だと言ふ意と思はれる。うる[#「うる」に傍線]は愚かの語根だから、鈍をつり出す鈎だと言ふ説が当る。まぢゝ[#「まぢゝ」に傍線]のまぢ[#「まぢ」に傍線]はまづしの語根だから、日本紀の本註にもある通り、貧窮之本になる鈎だと説いてよい。(すゝ[#「すゝ」に傍線]はまだ合点が行かぬ)する事なす事、手違ひになつて、物に不足する様になるとの呪咀を鈎にこめる事を教へたのである。貧窮を人に与へる事の出来る詞を授ける王の居る土地だから、富みに就いても如意の国土と考へる事は出来る。皇極天皇の朝、秦[#(ノ)]川勝が世人から謳はれた「神とも神と聞え来る常世の神」を懲罰した事件も、本体は桑の木の虫に過ぎないものに関して居た。此神も突発的に駿河に現れてゐるが、やはり海のあなたから渡来したものと信じられて居たのであらう。其はどうでも、常世の神の神たる富みを、農桑の上に与へた神であつたのである。
一体よ[#「よ」は罫囲み]と言ふ語は、古くは穀物或は米を斥《サ》したものと思はれる。後には米の稔りを言ふ様になつた。とし[#「とし」は罫囲み]といふ語が米又は穀物の義から出て年《トシ》を表す事になつたと見る方が、正しい様であるとおなじく、同義語なる「よ」が、齢《ヨ》・世《ヨ》など言ふ義を分化したものと見られる。更に「よ」と言ふ形に、「性欲」「性関係」と言ふ義を持つたものがある。此は別殊の語原から出てゐるのか知れないが、多少関係があるから挙げる。
常世を齢の長い意に使うてゐる例は沢山にある。私の考へでは、常世
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング