の他、家人の心をひき立てる様な詞をのべて廻る。かうした神々の外に、家の神としてゐる祖先の霊が、盂蘭盆に出て来る村もある。あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]と呼ぶ。男の祖先と女の祖先(此を祖父《オシユマイ》・祖母《アツパア》といふ)とが眷属を連れて招かれた家々に行つて、楽器を奏し芸尽しなどをするが、大人前《オシユマイ》が時々立つて、色々な教訓を家人に与へ、又従来の過・手落ちを咎めたりする。此三通りの常世のまれびとが、一つの石垣島の中に備つてゐる。
神の属性の純化せない時代の儘の姿である。あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]は語原不明だが、類例から見れば、やはり信仰上の地名であらう。此人々の出て来る処は、理想の国ではない。唯祝福と懲戒の責任と権利とを持つた一種の神が、人間の国土の外から来る訣なのである。にいる人《ビト》[#「にいる人《ビト》」に傍線]の場合も同様で、村の中堅たる若衆を組織し、一つの信仰を土台として、新しい人の手で古い村の生活を古い儘に伝へて行かせようとするのである。此も神とも鬼ともつかぬ人間の都合よい事ばかりを計る者ではない。其国は、蚤の来る国如き手ぬるい禍を持つた好しい聖地ではない様である。
蚤の乗る船の事は、正月の宝船の古い形式・奥州の佞武多《ネブタ》などゝ一つ思想から来たものなのだ。寝牀の悪虫や、農家の坐職に妨げする(――併し、古くは、夜ざとく睡つて、災害を免れる為の呪ひであつたらうと思ふ――)睡魔を船に流して、海のあなたに放逐するつもりであつた。だから、沖縄とは正反対になつて居るが、海阪《ウナザカ》の彼方《オチカタ》には、神でもあり、悪魔でもある所のもの[#「もの」に傍線]の国があると考へたのが、最初なのだ。我が国で見ても、幽界《カクリヨ》と言ふ語の内容は、単に神の住みかと言ふだけではない。悪魔の世界といふ意義も含んでゐる。幽界に存在する者の性質は、一致する点が多い。其著しい点は、神魔共に夜の世界に属する事で、鶏鳴と共に、顕界《ウツシヨ》に交替する事である。民譚に屡出る魔類と鶏鳴との関係は固より、尊貴な神々の祭りすら、中心行事は夜半鶏鳴以前ときまつてゐる。此で見ても、わが国の神々の属性にも、存外古い種を残してゐたので、太陽神の祭りにすら、暁には神上げをしなければならなかつた位であつた。
古代程神に恐るべき分子を多く観じたが、海のあなたから来る神
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