には、地物の精霊とは別で、単に祟《タヽ》り神としての「媚び仕へ」ばかりでなく、邑人に好意を寄せるものとして迎へる部分があつた。だから、神の中に善神の考へ出されるのは、常在する地物の神にはない事で、時を定めて常に新しく来り臨む神の上からはじまるものと見るべきであらう。但し、海のあなたの神の国から来る神も、必しも一村に一神とはきまつて居なかつた様である。が、大体ある村にきまつた「常世の神」は一体或は、一群だつたのであらう。村々の信仰が「常世の神」或は大空の神(――宮廷の言ひ方では高天[#(个)]原――)に、主神と見るべきものを考へて来ると、段々主神に倫理的の性質を考へて来る。併しさうした神たちも怒りを発して祟られる事はあるのである。常世神が後世地方々々の神社の神となつたとは言はれない。神の属性を高める事はする。其上、神の殿に神の常在せぬと言ふ観念を、地物の神の殿にまで及すまでに、力強く働きかけてゐる。にも拘らず、明らかに一処に常在せぬ、臨時にこひおろす事の出来ぬ事は、此種の神が存外神殿に祀られてゐない一つの理由であるが、ほかにも、訣がある。
邑人全体の自由祭祀によつて、村の中堅なる年齢の若衆が、共同に神職である為、素質の優れた者が、宗教的自覚を発する事が起る。神職の中、一人だけ一生交替せぬ上位の者として、常任する。かうして専門化すると、常世から定期に渡る神以外にも、色々の神の啓示を受ける事になる。此が一つ。此種の自覚者が、常住其意を問ふ事の出来る神が定まつて来ると、其神力を以て邑落生活の方針を訓へる事になる。其が、我々の想像を超越した時代の村々には、君主としての位置を持つて来る。さうなると、其神は、必しも邑人の共同に待ち迎へる常世の神と違ふ事が多かつたであらう。此が理由の二つ。世の中が進むと、共同神職なる青年が、自分自身に近い神を軽く見、次第に此神の神秘の内容を熟知するに連れて、其神に対する畏れは持つてゐても、更に新な神が出れば、含蓄の知れぬ神の方に心の傾くのは、当然であらう。其処へ、新神が出ると、此神の祭りは、第一番の地位を失ふ事になる。第三の理由である。
石垣島の話で言ひ残した「まやの神」に現れたまやの国の考へは、理想の国土としての意味になつて居る。此まやの神の行事は、若衆のする事である。成年式を経た若衆が、厳重な秘密の下に、簑笠を着、顔を蒲葵《ビラウ》の葉で隠して
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