#(ノ)]郎女《イラツメ》の別れを惜しむ娘を諭して「常夜にもわが行かなくに」と言うてゐるのは、後世の用語例をも持ちながら、原義を忘れて居ない様である。宣長は三つの解釈の中、冥土・黄泉など言ふ意に見て、常闇の国と言ふ意味に入れて説いてゐる。此などは、海のあなたの国といふ意にも説けるから、字面の常夜にのみ信頼しては居られない。だが、「常世行く」と言ふ――恐らく意義は無反省に、語部の口にくり返されて居たと思はれる――成語は、確かに常闇《トコヤミ》の夜の状態が続くと言ふ事に疑ひがない。此「常夜」は、ある国土の名と考へられて居なかつたやうであるが、此語の語原だけは訣るのである。さうすると、常世の国は古くは理想の国土とばかりも言はれなかつた事になり相である。
とこ[#「とこ」は罫囲み]は絶対の意の語根で、空間にも時間にも、「どこ/″\までも」の義を持つてゐる。常夜は常なる闇より、絶対の闇なのである。
我が祖先の主な部分と、極めて深い関係を持ち、さうしてその古代の習俗を今に止《とど》めてゐる歌の多い沖縄県の島々では、天国をおぼつかぐら[#「おぼつかぐら」は太字、罫囲み]と言ふ。海のあなたの楽土をにらいかない(又、ぎらいかない[#「ぎらいかない」に傍線]・じらいかない[#「じらいかない」に傍線]など)又まやのくに[#「まやのくに」は太字、罫囲み]と呼ぶ。こゝでも、おぼつかぐら[#「おぼつかぐら」に傍線]は民間生活には交渉がなくなつて居るが、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]はまだ多く使うてゐる。而も其|儀来河内《ギライカナイ》は、また禍の国でもある様子は見える。蚤は、時を定めてにらいかない[#「にらいかない」に傍線]から麦稈の船に麦稈の棹さして此地に来るといふ。おなじ語の方言なるにいる[#「にいる」に傍線](又、にいる底《スク》)を使うてゐる先島の八重山の石垣及びその離島々では、語原を「那落」に聯想して説明してゐる程、恐るべき処と考へてゐる。洞窟の中から通ふ底の世界と信じてゐる。其洞から、「にいるびと」と言ふ鬼の様な二体の巨人が出て来て、成年式を行ふ事になつてゐる。神として恐れ敬うて、命ぜられる儘に苦行をする。而も、村人の群集してゐる前に現れて、自身舞踊をもし、新しい若衆たちにもさせる。又、他の村では、「まやの神」が、農業の始めに村に渡つて来て、家々を訪れて、今年の農業の事そ
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