知識は、我々を驚す片方に、又我々の叡智をも昏ます。
中央ならびに、中央の影響が見られ、又最蒙り易からうと思はれる辺に、すかい[#「すかい」に傍線]は、瞥見的にすら姿を見せなかつたやうな貌をしてゐる。此が方言さかい[#「さかい」に傍線]史における、驚いてよい実情である。謂はゞ一度蒔かれた種が、時経て孤立した芽をひらくやうに、其前後と関繋ないものゝやうにさへ感じられる風に、処女地見たやうに現れて来る。だが実際は、語は語として、絶えることなく、地表に現れ続けてゐたのである。我々の文献が目をふたぎ、耳をとざして居たばかりである。
全然痕を消した訣ではないが、地表からは埋没したやうな観を呈する。これが文献上の方言事実である。併し其は残存して命脈を続けてゐるのだが――口頭にすら途絶えてしまつたといふ風になりきつてゐて、時を経て著しく目につき出す。文献の証明と、稀々に使はれることゝ、さうして頻繁に使用することゝ、此三つの方言の現れ方があつて、後の二つは注意せられて居ない。二番生えの形ばかりが、目立つて出て来たりする。だが、方言の上では、驚くべきことではなかつた。
「から」と、「す」と繋がる形は、行きす[#「行きす」に傍線]・思ひす[#「思ひす」に傍線]でなく「行くす」「思ふす」(例、行くすから・思ふすから)でなければならぬといふ、から[#「から」に傍線]に対する文法観が強く出て、「行く[#「行く」に傍線]から」「思ふ[#「思ふ」に傍線]から」のやうな形を、「行く[#「行く」に傍線]す」「思ふ[#「思ふ」に傍線]す」の上にも望んだのである。語義的に深いものゝない――又は忘却した――中間の「す」を越えて、「終止+す+かい」と言つた形を作つたのが、「すかい」「すけ」の一類であつた。
その後、かう言ふ位置にある中間音「す」を、一層「さ」に近づけて行つたものと思はれる。つまりすかい[#「すかい」に傍線]の音質が其に引かれて、さかい[#「さかい」に傍線]に近いものになつて、漸く其方へ移つた、とさう見るのが、あたりまへではないか。
時経て感受のし方が変つてしまつた時分に、遥かな地方に偏在し残つたすかい[#「すかい」に傍線]も、当然元、胚胎したまゝのさかい[#「さかい」に傍線]の未然要素を顕して、さけ[#「さけ」に傍線]・さけい[#「さけい」に傍線]といふ段階に移つたものと考へてよいだらう。
すかい[#「すかい」に傍線]・すけ[#「すけ」に傍線]・しかい[#「しかい」に傍線]・しけ[#「しけ」に傍線]・しき[#「しき」に傍線]の分布を見る地方に、さかい[#「さかい」に傍線]・さけ[#「さけ」に傍線]・さけえ[#「さけえ」に傍線]・さかいで[#「さかいで」に傍線]が現れて来ても、その後又、上方から新しく流れこんで来たものとは、必しも限らぬのである。此とおなじことが、もつと有力に、さかい[#「さかい」に傍線]の出自なる上方にも起つて居たことは、考へておいてよい。
方言は、先に言うたやうに、あるものは、消滅しきらずに、ある期間甚しく衰弱してゐる。さうして何かの動機で、大きに盛り返して来る。方言に限らず、言語全体の上にある例なのである。長い様式を持つて出て来るのが、歌謡である。
さかい[#「さかい」に傍線]の歴史の古さが思はせることは、この方言の唯今分布残存するすべてが、すかい[#「すかい」に傍線]流布後はじめて=さかい[#「さかい」に傍線]が=現れたものとは言ひきらせないものゝあることである。
少々材料不足を感じるが、かう言ふ理由はある。
盛り返す言語生命[#「盛り返す言語生命」は太字]
上方のさかい[#「さかい」に傍線]は、江戸中期に勢ひを盛り返したもので、その以前に、稍古く既に一度栄えた時代のあつたことが言はれさうなのである。之と似たことで、地方によつては、すかい[#「すかい」に傍線]の全盛時代に、その地方としては、始めて、さかい[#「さかい」に傍線]の現れた所もあつたらしい。さうして其が、上方からの新輸入らしかつたことを思はせてゐる――。その力強さは、唯方言の気まぐれ性《シヤウ》や、行き当りばつたり性から、頭を擡げたりする性質だけによるのではない。
一番さう言ふことの注意を惹く理由は、対話敬語としての「すかい」「さかい」の「す」「さ」が、敬語の地馴しらしい優柔性を感じさせるばかりで、方言文法の上では、何処にもはつきり、痕を残さずじまひになつたらしい点である。
「す」と「けに」の接合した九州方言の形と、形式上では、其から成熟した――遅い発達のやうに見える、さかい[#「さかい」に傍線]との間にはまるやうな、「すかい」の示してゐるやうに、――敬語なり、対話敬語なり、上品語なり、自卑形なりを、気分豊かに示す此系統の方言がありさうなものである。あるべくしてないと言
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