(六)

 夫は今しがた書斎を出て行ったばかりである。今自分から和服に着換えて出てゆく夫の行先は大体判ってはいるが、そんなことに労される閑枝の心ではなかった。ただじつなげに、そのままそこの椅子に腰を下した。
 秋の西陽が窓掛の隙間を通して、絨氈の上に落ちていた。
 何の気もなく、フト夫のテーブルを見ると、そこに一冊のノートが置かれてあった。手に取って見ると、それは夫の蔵書目録の一部であった。ただ無関心にその頁を繰っていった閑枝は、吸付けられるようにある頁に視線をそそいだ。そこには、「啄木詩集」と云う活字が凸版のように浮上っていた。そして、それだけではなかった。その「詩集」の部分は赤インキで抹消し、その備考欄には、同じ赤インクで、次のように記されてあった。
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 S氏におくる。K温泉にて。昭和二年六月十八日。
[#ここで字下げ終わり]
 閑枝の空虚《うつろ》な心は、押し潰されるような驚きに打たれた。全身がわなわなと慄えた。青白い顔に血の気が上った。
 閑枝は、むさぼるように頁を繰った。それは、その目録から夫の日記の索引を求めるためだったが、その目
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