にお尋ねするまでもなく、私によく判っています。
 あなたは、私の暗夜を歩むに似た生涯に、一つの燈《ともしび》となって下さいました。長いこと暗の夜に、とじこめられていたものが、急に光りを認めたときの喜こびが私にあの第一信を書かせました。私の心に点じられた火は、次第にあかるくなってゆきました。私は世をうらみ、身をなげく絶望から、蘇って生の喜びを感じさえしました、しかし、それは愚かな私のはかない喜びに過ぎなかったのです。あなた、と云う光りが、次第に強くなればなるだけ、私の苦悩を増す結果を愚な私はあまりの嬉しさに忘れていました。
 あけても、暮れても、あなたへの手紙を、私の日記に書き入れることを、仕事にしていた私は、それが次第に耐えられぬ苦痛となって来ました。それは到底、あなたの前に、私と云うものを現すことが、出来ないからです。この頃では、あなたの姿を見なかった方が、幸福であったようにさえ思われます。
 私は今一枚の画を書いています。その画が出来上りましたら、あなたのお目にかけてそれを最後に、あなたへの手紙を再び書くまいと決心しています。
[#ここで字下げ終わり]

 この手紙を読んだ閑枝は、深い淋しさを感じた。それは愛とか恋とか云うものとは別な、なんとも訳のわからぬ淋しさであった。何時の間にか閑枝の心に描かれた未知の手紙の男は、次第にその形をはっきりと現わして、閑枝の心に深く刻みつけられているのであった。
 日が暮れていた。閑枝はまたしても窓越しに柳の葉の暗い茂みを瞶めていた。

        (四)

 閑枝の京へ帰る日が次第に近くなってきた。それは病気も多少は快くなっているし、こう云う淋しいところに、いつまでも一人で置くことは、却て本人の気を憂鬱にすると云う、兄の注意もあったからである。
 京都へ帰ることになっても、閑枝は別に嬉しいとは思わず、またこの土地に大して執着も持って居なかったが、ただ無名の手紙の主が、何人であるかと云うことだけは、知りたいと思った。
 だが、元より兄や姉に聞くことも、はばかられ、また聞いて見たところで、京阪地方の人達が入込む、温泉の旅館町では、判りそうにも思われなかった。
 明日は、二番で立つと云う前の日、午後の三時頃であったが、一個の小包と、手紙が同時に着いた。
 その小包を開いて見ると、細い額椽《がくぶち》に嵌《い》れた、八号ばかりの油絵と、一冊の本とが這入っていた。

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 あなたは、明日いよいよお立ちになるそうですね、京都へお帰りになりましたら、ずい分身体を大切にして、幸福にお暮しなさいますように。
 この前、申しましたように、画をお送り致します。この画は、御承知の通り、「しゃぼてん[#「しゃぼてん」に傍点]」を書いたものです、「しゃぼてん」は、あの青黒い、とげ[#「とげ」に傍点]のある醜い形をして居りますが、その頂上に開く小さな花は、血のような、真赤な色をしています。あなたと、おわかれするに臨んで、なぜ私が仙人掌の花を描いたか、それは、恐らく私の一生に、私の口からその理由をお話しすることはあるまいと思います。しかし何時かは――私の死後かも判りません――あなたに判るときがあるような気がします。
 この「啄木の詩集」には何の意味もありません、ただ、あなたに差上げようと思うだけです。どうか、お身を大切に、幸福にお暮しなさいますように。
[#ここで字下げ終わり]

 閑枝は、胸のせまってくるのを感じた、余程病気が重いに違いない。一度会って見たい。慰めてあげたい。こう思って啄木詩集のページを繰って見たが、活字の外には何にも書き入れてなかった。画にもサインはしてなかった。切手には例の通り「山代局」のスタンプで、六月十八日の日附があった。
 その翌る朝閑枝は電車で片山津を発った。電車の窓からは朝の陽に光る湖水と、その湖畔の小さな温泉町とが見えた。あの町のどこかにあの画を描《か》いた人がいる。と思うと引返したいような気持になるのであった。

        (五)

 閑枝が京都へ帰ってから、一週間ばかりの後であったが、兄から手紙が届いた。その手紙の一節に次のようなことが書かれてあった。

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 ……お前が帰ってから一寸変なことが出来たよ、お前の写真を写したあの弥生軒と云う写真屋ね、あの写真屋のおやじが、お前を撮らして貰ったことを光栄に思って、――一つは大変自慢していたから、あれでも会心の出来栄えだったのだろう――あれを手札に伸して陳列の中に入れて置いたのだそうだ。所が、その陳列箱と云うのが、お前も多分知っているだろうが、あの弥生軒が小路を入った奥にあるのだから、自分の家から出た角の、宝来旅館の横手の壁板に取付けてあるのだ。
 お前が帰ってから三日目の朝だったそうだが
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