、弥生軒のおやじが、その陳列箱を見るとお前の写真が一枚紛失していたと云うんだ、最もその陳列箱と云うのが、小さなガラスの箱を取り付けたようなもので、その開きは一寸金具を外せばすぐ開くようになっていたと云うことだ、それで弥生軒のおやじが青くなって、早速宅へ来て低頭平身お話をして帰ったがね、相手が写真だから何だか一寸変な気がせぬでもないが、此辺には「不良」などは居ないから、大方「美しい女の写真」と云うので潟の猟師の若衆でもが欲しくて盗んだものだろう、嘸《さぞ》大切に持っていることだろうから、気にするほどのこともあるまい……。
[#ここで字下げ終わり]

 閑枝には、此の写真を盗んだものが誰れであるかを、直ぐにさとることが出来た。そして一寸不快な気持ちになったが、それほどまでに自分を慕っている未知の男を、いじらしいものに思う心がすぐに湧て来た。そしてもし其男の住所が判っていれば、「あの写真は、あなたに差上げます」と云ってやりたいような気持にさえなるのであった。
 それから二年の月日が経った、閑枝が結婚してから一年になる。
 片山津から帰ってからの実家の一年。結婚後の一年。その二年の間未知の男は閑枝の胸に巣喰うていた。その男の姿は、いろいろに形を変えた。咳に苦しみながら画筆を握っていることもあった。暗い湖辺に後姿を見せて佇んでいることもあった。時とすると不自由な身体を松葉杖に支えられていることもあった。
 閑枝の結婚は、旧式の、而かも一種の犠牲婚姻であった。その結婚の当夜、まだスッキリと病気の癒りきらぬ身体を自動車にゆられているとき、閑枝の座っている前方のガラスに未知の男の顔が映った。閑枝は淋しい笑をその顔に与えた。
 閑枝は、藤畳の黒く光る烏丸《からすま》の家から、この東山の洋館に身の置所を換えてからも、その居室には「仙人掌の花」の画をかけていた。絵のなかの仙人掌は年を経たせいかひどく黒ずんで、その醜い姿はますます醜いものになっていた。それと反対に、その頂点に咲くただ一輪の小さな赤い花は、その赤さの色は、ますますさえ[#「さえ」に傍点]て気味悪いまでに美しく浮きあがって見えるのであった。
 婚礼の当夜、自動車のガラスに形を現わした未知の男の顔は、そのままこの仙人掌のなかに潜んでいた。
 仙人掌の画に向ってなにごとかを囁いている閑枝を、女中なぞは、ときどき見かけることがあった。

        (六)

 夫は今しがた書斎を出て行ったばかりである。今自分から和服に着換えて出てゆく夫の行先は大体判ってはいるが、そんなことに労される閑枝の心ではなかった。ただじつなげに、そのままそこの椅子に腰を下した。
 秋の西陽が窓掛の隙間を通して、絨氈の上に落ちていた。
 何の気もなく、フト夫のテーブルを見ると、そこに一冊のノートが置かれてあった。手に取って見ると、それは夫の蔵書目録の一部であった。ただ無関心にその頁を繰っていった閑枝は、吸付けられるようにある頁に視線をそそいだ。そこには、「啄木詩集」と云う活字が凸版のように浮上っていた。そして、それだけではなかった。その「詩集」の部分は赤インキで抹消し、その備考欄には、同じ赤インクで、次のように記されてあった。
[#ここから1字下げ]
 S氏におくる。K温泉にて。昭和二年六月十八日。
[#ここで字下げ終わり]
 閑枝の空虚《うつろ》な心は、押し潰されるような驚きに打たれた。全身がわなわなと慄えた。青白い顔に血の気が上った。
 閑枝は、むさぼるように頁を繰った。それは、その目録から夫の日記の索引を求めるためだったが、その目録に日記はのせてなかった。閑枝はその目録を持ったまま、その室に隣った夫の書庫に駈け入って書架の各段を注意深く見ていった。書籍の背皮に光る金文字が気を焦つ閑枝の目にチラチラとうるさく映った。最後の小さな書籍箪笥には鍵が掛っていたが、鍵はその抽斗から直ぐに見付かった。そして其下段の隅に十冊ばかりのノートを発見することができた。それを引出して見ると果して日記であった。その表紙に記された年月によって一冊ずつを繰って見ると、その日記は昭和二年の九月で終っている。一月、二月と順に繰って見た。閑枝の胸は名状し難い感情のたかぶりに波打って、一冊ずつを繰る指先は慄えていた。
 だが、五、六、七、八の四ヶ月は見当らなかった。ただ初めの二頁ばかりを記入してあとは白紙のままの九月分を見出したままであった。何度繰返して見てもその四ヶ月分を見出すことができなかった。が、その九月分の中央に一枚のはがき[#「はがき」に傍点]が挟まれているのを発見した。そのはがき[#「はがき」に傍点]は夫に宛てたもので、差出人は加賀片山津温泉場宝来旅館、裏をかえしてみると、
[#ここから1字下げ]
 謹啓、御滞在中は万事不行届の段幾重
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山本 禾太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング