にも御詫申上候、久しき御病気も御本復|被遊《あそばされ》私方の本懐も之れに過ぎ不申《もうさず》、健かなる御血色にて、御乗車御出発を御見送り申上候私共にとりても、些か御看護申上候甲斐ありと、御尊父様に対しても、肩身の広き思い致候、此上とも何卒《なにとぞ》御用心被遊候様御願申上候
尚過日は沢山の御手当を頂戴仕り万々難有御礼申上候、来年は御健やかなる体を拝し度《たく》、是非御入湯|被下《くだされ》候様御願申上候
尚々御預り申上居り候(書籍並に画の道具類)御送付|可申上《もうしあぐべき》候|哉《や》如何一寸御命じ被下度候
九月二十七日
[#ここで字下げ終わり]
と記されてあった。
日が暮れて電気が点いていた。
日記を繰って見ると、山中へ行ったのは五月十二日であった。山代郵便局のドアを開いて出てきた男は、ほんのただ一瞬間顔を見合せただけであったが、閑枝の記憶にのこるそのおもざしは今の夫に似ているようであった。永い間閑枝の胸に抱かれてきた未知の男の姿が、今現実なものとなって閑枝の前に現れた、それが夫である。
机の上には四通の手紙が置かれてあった。
閑枝は魂を抜き去られたもののようにその前に座っていた。やがて、憤りに似た感情が閑枝の胸に湧き起った。それは二年の間を胸に抱きしめて愛撫に磨いた珠玉を、泥靴で踏みくだかれた口惜しさと、腹立しさとであった。
閑枝は幾度読み返したか知れない四通の手紙を引破って了った。それを傍の火鉢に放げ入れると、マッチを摺って火をつけた。赤く弱い焔がメラメラと立のぼったが、それが消えると黒くなって残った手紙の残骸は、火鉢のなかで脹れ上った、そしてその一部は灰となって軽く天井に舞い上った。
閑枝は、ツ[#「ツ」に傍点]と立上った、そして書架の上にかけていた「仙人掌の画」に手をかけた、が、そっと静かに手を引いてその画に見入った。
「仙人掌」のなかの顔は笑っていた。閑枝は、それに引入れられるようにかすかな笑を頬に浮べながら低い声でなにごとかを話しかけていた。
長い間画に話しかけていた閑枝の顔は、次第に蝋の如くに蒼ざめた。
「仙人掌」のなかの顔は次第に夫の顔に変っていった。
荒々しく額椽に手をかけた閑枝は、またしてもツと手を引いた。
(夫がこう云う画を描くだろうか)と、閑枝は思ったのである。
(七)
結婚後、夫が画を描いたことは一度も見たこともなく、また画を描くと云うことを聞いたことさえもない。
夫がはたして手紙を書いた未知の男であるなら、今日までそれを黙って居よう筈もない。なんのために夫はそれを語らなかったのであろうか。斯う思うと、夫の筆跡と手紙の筆跡とは、似ては居るようであったが、どこかに違ったところがあるようにも思われるのであった。しかし閑枝は、その筆跡なぞを比べてその真偽を究めようなぞとは思わなかった。また夫にそれを確かめて見ようとも思わなかった。ただ、なんとはなしに、静かな、平和な光りのなかに、思うがままに開かせてきた空想の華を、無残にも引きちぎられた悲しみとも、憤りとも、名状し難い不快な気持であった。
夫は、その夜遂に帰って来なかった。
追憶と夢の一夜が明けた。
時計を見ると九時であった。
漸く床から出た閑枝は、朝の身仕舞もものうく、そこの姿見に顔を写して見た。そして蒼白く細い自分の顔に両手を当てて見た。
そっと襖が開いて女中がはいってきた。
「お目覚めで御座いますか、只今、あの………旦那様からお電話で御座います」
「そう………」
閑枝は立ち上ろうともしなかった。女中は、そこにもじもじとしていたが、
「あのう……、如何いたしましょう」
「そうね………」
力なく電話室に歩を運んだ閑枝が、受話器を耳に当てると、すぐに元気な夫の声が響いた。
「閑《しず》さんか、今朝の京都新聞を見たかい、わたしもね、お前の病気を癒してやろうと思ってずいぶん苦労したが、もうこれからは二人共幸福になれるよ、早うお見、今朝の京都新聞の三面を………」
部屋に帰った閑枝は、もの憂い心で新聞の頁を繰った。そしてその三面を見ると、息詰るような驚きに打たれて、我知らず新聞をとりあげた。
その三面には、かつて片山津で盗まれたと云う自分の写真が載っているではないか。おののく心を静めながらその見出しを読むと、
『佝僂男の失恋自殺』として「美人の写真を挟んだ日記を残して」と、割注が施してあった。そして身元不明のため遺留品の写真に「加賀片山津弥生軒」とあるので同地方へ照会中であると結んであった。
仙人掌のなかの顔は笑っていた。蒼白い顔に笑を浮べた閑枝はいつまでも、その画に向ってなにごとかを囁き続けた。
[#地付き](一九三二年一月)
底本:「幻の探偵雑誌6 「猟奇」傑作選」光文社文庫、光文
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