しさは感ぜられるが、どこかにまた、生のよろこびを歌っているようにも思われた。しかしそれよりも、此手紙の主《ぬし》が何人《なにびと》であろうか、と、云う好奇心が第一に起るのであった。

        (二)

 其あくる日は、兄夫婦と共に、伊切の浜へ行って見た、京都と云う海のない都会に育って、海と云えば大阪の築港より知らぬ閑枝に取っては、日本海に向って立った感じは、あまりに雄大すぎた。初夏の光が海一ぱいに拡って、遠い海のはては、次第に灰色にかすんでいる、そのかすんだ灰色のなかから、黒い大きな波が魔物のように押し寄せて、怒りそのもののように岸をかんでいる。
 閑枝の心は、またしても淋しさに捉えられた。
 帰りは自動車に乗った。
 陽にかがやいた磯。白く光る波頭。暗く灰色にかすんだ海の涯が、いつまでも閑枝の心にのこっていた、机の抽出《ひきだし》には、遺書と、未知の人から来た手紙とが、何時までも這入っていた。
「あんなことを云っても、ほんの一ときの気まぐれから、いたずら半分の手紙だろう」
 斯《こ》う思い捨てても、時折はその手紙を出して眺めることもあった。別に大きな期待をかけている様でもなかったが、それでも現在の閑枝に取ってただ一つの刺戟である手紙の主がこのまま、消えてしまうことは淋しいことには、違いなかった。
 しかし、それから四五日の後、閑枝は机の上に、再び差出人の署名のない、白い角封筒を見出した。

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 私は、あなたへの手紙を、毎日書いています。それが現在の私の仕事の総てです。世に容れられない身体を持った私は、何度自殺と云うことを考えたでしょう。だが死ぬ勇気さえもなく私は惰性のような命をもって、この温泉場に逃れてきました。京都から来るときには沢山の本を持って来ましたが、まだその三分の一も読んでは居りません。読めば読むだけ、苦痛を増すばかりで、少しも慰めとはなりません。此土地も次第に都会の人が入り込んで来ます。私は幾度湖水の畔に立って死を考えたことでしょう。でも私は生きていたればこそ、あなたと云う方を見出すことができたのです。私は生きていたことの幸福をしみじみと感じます。貴女の御病気が一日も早く御全快になるよう祈りながら、その日が貴女をこの町から失うときであるかと思うと、淋しくなります。しかし私は、そのときがきても決して悔まないでしょう。それは私の心から、あなたの姿は永遠に消えないからです。
[#ここで字下げ終わり]

 いのちをかける何物をも持たぬ閑枝にとっては、この主の知れない手紙は、大きな心の刺戟であった。
 原稿用紙へ、ペンで小さく書てある字を、瞶めていると、その一線一画にさえ、どうやらなつかしさを覚えてくるのであった。閑枝は何とはなしに、その手紙を、鼻にあてて見た、そこにはほのかな、紙とインクの香があった。また封筒を手に取って見た。落付いた行書で、閑枝の名前が、やや大きく書かれてあった。見も知らぬ人の手によって、書かれた自分の名前、それが何か、宿命とか、因縁とか、云うような決定的なもの[#「もの」に傍点]が、この見も知らぬ手紙の主との間に、結ばれているのではあるまいか、と云うような、魅力を持った不安が感ぜられるのであった。左の肩に、正しく貼られた切手には、ハッキリとした「山代《やましろ》局」の消印があった。

        (三)

 そのあくる日、閑枝は、一人で山中へ行って見た。黒谷橋から断魚渓に沿うて、蟋蟀《こおろぎ》橋へ上った。岩を咬む急|潭《たん》が、ところどころでは、淵となって静かな渦を巻いていた。そこには背の黒い小さな川魚が、静かに遊んでいた。岩の上に佇んでじっと覗きこんでいると、またしても閑枝の心に死と云うことが考えられる。が、その死と云うひろがりの、空虚ななかに、未知の手紙の男の姿がはっきりと、幻覚となって現れるのであった。
 帰りの電車では、山代線で、動橋《いぶりばし》行きを待合す間に、閑枝は山代の町を歩いて見た。駅の前通りを、ほんの二丁程も歩くと、そこの右側に「山代郵便局」があった。無名の手紙は、いつもこの局の消印で来る。片山津《かたやまづ》に郵便局があるのに、何故ここまで投函にくるのであろうか、そんな軽い疑念に、たださえ遅い足のはこびが、一層緩くなったとき、「山代郵便局」と白ペンキで書き込んだ、ドアが内側から、ギーと低い音を立てて、静かに開いた、そして其石段の上に、一人の若い男が現れた、閑枝は、何故とはなしに、ハッと思った、そして幾分狼狽した心で、歩を移した。
 そのあくる日の夕方、閑枝がいつもの通り湖畔の散歩から帰って見ると白い角封筒が机の上に置かれてあった。

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 私の第一信を、あなたは、どう云う気持ちでお読み下さったでしょうか……、それは、あなた
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