教』一巻七三頁に、アーマドナガールで四、五月の交《こう》二村の童子石を打って闘う。この行事を廃すれば雨ふらず、もし雨ふれば鼠大いに生じて田を荒すと。わが邦に昔行われた印地打《いんじう》ちだ。『日吉《ひえ》社神道秘密記』に鼠の祠は子の神なり、御神体鼠の面、俗形|烏帽子《えぼし》狩衣《かりぎぬ》、伝説に昔皇子誕生あるべきよう三井寺の頼豪《らいごう》阿闍梨《あじゃり》に勅定《ちょくじょう》あり、百社祈って御誕生あり、頼豪に何でも望みをかなえやろうと仰せられ、すなわち請うて三井寺に戒壇を立つ、叡山から極力これを阻《はば》んで事ついにやんだので、豪、面目を失い、死して四歳の皇子を取り殺し、自ら三千の鼠となって叡山を襲い、経典を食い破ったので、神に斎《いつ》き祀ってこれを鎮《しず》めたのだと。『さへづり草』むしの夢の巻にいわく、寛文二年印本『江戸名所記』に根津《ねず》権現《ごんげん》社は大黒神を祭るなり、根津とは鼠の謂《いわ》れにて、鼠は大黒神の使者なれば絵馬などにも多く鼠を画《か》きたりとあって、不寝《ねず》権現と書せり、また貞享四年印本『江戸鹿子』に不寝権現、千駄木《せんだぎ》村、ねずとは大黒天神を勧請しけるにや、ねずとは鼠の社の心にやとあり云々。按ずるに古くは子《ね》の権現といえりしを、子はすなわち鼠なるにより下略して子ず権現と称《とな》えしより、寛文の頃に至っては不寝と書きしより、なお元禄の末までも不寝権現とは書き来りしならん云々、さるを宝永三年根津左衛門が霊を合せ祭りて、根津の文字に改められしものなるべしと。またいわく都城必ず四神を祀り以て四方を鎮す、子はすなわち北方玄武神、世俗これを子聖《ねひじり》あるいは鼠のほこらというと、これは拠って按ずるに、太田道灌江戸造立の時祀りし社なる事疑いなし、その方角すなわち北に当れり云々。またいわく伊豆国下田の近郷、中の瀬村の鎮守を子の聖権現といえり、この神、餅を忌み嫌いたもうとて、中の瀬一郷、年の終りに餅を搗《つ》かず、焼飯に青菜を交えて羮《あつもの》となし、三ヶ日の雑煮に易《か》えるとぞ、これも珍しと。これについて何か一勘弁付きそうな物と藤沢君の『伝説』伊豆の巻を穴ぐり調べたが一向載っていない。とにかく根津社はもと大黒天に関係なく、鼠害を静むるため鼠を祝い込めた社で、子の聖権現は馬鹿に鼠を嫌う神と見える。
 多い神仏の内には豪気な奴もありて、『雍州府志《ようしゅうふし》』に京の勝仙院住僧玄秀の時、不動尊の像の左の膝《ひざ》を鼠が咬んだ、秀、戯れに明王諸魔|降伏《ごうぶく》の徳あって今一鼠を伏する能わずといった、さて翌朝見れば鼠が一疋像の手に持った利剣に貫かれたので感服したと出づ。似た話があるもので、モニエル・ウィリヤムスの『仏教講義』に、インドの聖人若い時神像に供えた物を遠慮なく鼠が著腹《ちゃくふく》するを見て、万能といわるる神が鼠を制し得ざるに疑いを懐《いだ》き、ついに一派の宗旨を立てたとあった。羽後《うご》の七座山には勤鼠大明神の祠あり。これは昔七座の神に命ぜられて堤に穴を穿《うが》ち、湖を疏水《そすい》した鼠で、猫を惧れて出なんだので七座の神が鼠を捕らねば蚤《のみ》を除きやろうと約して猫を控えさせ、さて鼠族一夜の働きで成功した。因ってその辺の猫は今に蚤付かず。さてこの鼠神の祭日に出す鼠|除《よ》けの守り札を貼れば鼠害なしという(『郷土研究』三巻四二八頁)。守り札で銭をせしめる代りに買った者を煩わさない、ちょうど博徒様の仕方だ。大黒に関係なしと見える。欧州でも、ゲルトルード尊者、ウルリク尊者、またスコットランドのストラス・レヴェン洞に住し、上人いずれも鼠を退治すといい、その旧住地と墓に鼠近付かず、その土および供物のパン能く鼠を殺すと信ず(一九〇五年板、ハズリットの『諸信念および民俗』二巻五〇七頁、一八二一年板コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』。ピンケルトンの『陸海紀行全集』三巻一五頁)。日本で正月に餅を鼠に祝う代りにこのパンを取り寄せて与えるがよかろう。
 昔四国遍路した老人に聞いたは、土佐の山内家が幕府より受けた墨付百二十四万石とあった。百の字を鼠が食い去ったので百万石は坊主丸儲けとなった。故に鼠を福と称え殺すを禁じたと。『山州名勝志』二に、山城霊山辺の鼠戸長者、鼠の隠れ里より宝を獲て富んだ話あり。これは伏蔵を掘り当てたのだろう。プリニウスの『博物志』に、鼠、盗を好む余り、金山で金を食う。故に鼠の腹を剖《さ》いて金を獲《う》とある。昔インドの王子、朝夕ごとにわれに打たるる女を妻《めと》らんというに応ずる者なし。ようやく一人承知した女ありてこれに嫁《とつ》ぐ。二、三日して夫新妻を打たんとす。妻曰く、王子の尊きは父王の力だ。自分で金儲けて後始めて妾を打てと。道理に詰って王子象馬車乗と従者多く伴れて貿易のためルチャ国に往く。その妃親臣を呼び、窃《ひそ》かに従い行かしめ、何時《いつ》でもわが夫浴するを見ばその腰巻を取り帰ってわれに渡せと命じた。ルチャ王その宮殿の屋根より太子の一行来るを見、使をして汝は不断繁昌するの術を知るか、一日繁昌するの法を知るかと問わしめると、不断繁昌する術を知ると答う。王すなわち太子の商品を没収し、従者象馬に乗って去り、太子一人無銭で置き去られ、やむをえず最下民同然、腰巻一つで富家に奉公す。その時までも妃が付け置いた親臣のみ太子に附き添い、一日《あるひ》太子浴するとて脱ぎ捨てた腰巻を拾うて帰国を急ぎ、妃に奉ると、妃これを蔵《おさ》めた。妃その者より太子の成行を聴き取り、手拭《てぬぐい》一つと鼠一疋携えてかの国へ往った。国王使して前度のごとく質《ただ》さしむると、妃、われは一日繁昌すべき術を知ると答えた。王すなわち妃を請じ、また太子の従者|脱《のが》れて近所にあった者を招集し、太子より取り上げた一切財宝を誰に遣るべきかを決すべしとて猫一疋を出し、この猫が飛び掛かった人に遣るべしといい、一同王を囲んで坐した。太子の妃は持参した手拭で隠し置いた鼠をしばしば現わし示すと、猫これを見付け、王が縦《はな》つや鼠欲しさに妃に飛び掛かったから、王一切の物件を妃に渡し、妃これを象馬に積んで夫の従者を領して帰国した。太子はいつまで働いても埒《らち》が明かず、阿房《あほ》らしくなって妃に後《おく》るる数日、これまた帰国し、サア妃を打とうと取り掛かる。妃は従者一同の前で古腰巻を取り出し、これは誰の物と夫に問うと、王子一見して自分の窮状を知られたと覚《さと》り、金儲けして帰ったと詐《いつわ》りもいえず、大いに恥じ入った。妃全体|良人《おっと》が持って出た財宝は今誰の物になり居るか、従者に聴いた上妾を打たれよと言ったので王子返答も出ず。妻を打つのを全廃したという(一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナス俚伝』一一三頁)。『閑田耕筆』三に、人は眼馴れた物を貴ばず、鶏や猫が世に少なかったら、その美麗で大用あるを賞し争うて高価で求むるだろうと言ったはもっともで、ロンドン市長が素寒《すかん》な少年時代に猫ない土地へ猫を持ち渡り、インドの鼠金商主が、死鼠一疋から大富となった話も実際ありそうな事だ。さればボーモントおよびフレッチャーの『金無い智者』にも不思議に好景気な人を指して、精魂が鼠か妖婆の加護を受くるでないかという辞《ことば》がある。
 鼠は好んで人の物を盗み匿《かく》す。西鶴の『胸算用《むねさんよう》』一に、吝嗇《りんしょく》な隠居婆が、妹に貰いし年玉金を失い歎くに、家内の者ども疑わるる事の迷惑と諸神に祈誓する。折節《おりふし》年末の煤払《すすはら》いして屋根裏を改めると、棟木《むなぎ》の間より杉原紙《すぎはらがみ》の一包みを捜し出し、見るにかの年玉金なり。全く鼠が盗み隠したと分ったとあり。幼少の頃読んだ物の名は忘れたが、浪人が家主方へ招かれ談して帰った跡で、その席に置いた金が見えず、浪人に質すと、われ貧に苦しみて盗めりとて謝罪し、早速一人娘を遊女に売って償却した。そののち大掃除をすると鼠の巣から見出した、浪人は償却しおわると直ぐ転住して行衛《ゆくえ》知れず、家主一生悔恨したとあった。支那にも『輟耕録』十一に、西域人木八剌、妻と対し食事す、妻金の肉|刺《さ》しで肉を突いて、口に入れ掛けた処へ客が来た。妻肉さしをそのまま器中に置き、茶を拵えて客に出し回って求むるに肉さしなし。今まで傍に在《い》た小婢を疑うて拷問厳しくしたが、盗んだと白状せずに死んだ。一年余りして職人に屋根を修理せしむると、失うた金の肉刺しが石に落ちて鳴った。全く誰もいない内に来た猫が肉とともに盗み去ったものと分った。世事かくのごとくなるもの多し、書して後人の鑑《かがみ》となすとあり。『竜図公案《りょうとこうあん》』四にも似た話を出し居るが、鼠の代りに人が盗み取ったとし居る。山東唐州の房瑞鸞てふ女、十六で周大受に嫁し、男可立を生んで一年めに夫が死んだ、二十二歳で若後家となり、守節十七年、可立も名のごとく立つべき年齢になったので、妻を迎えやらんと思えど、結納金乏しくて誰も嫁に来らず。時に衛思賢という富氏五十歳で妻に死に別れ、房氏の賢徳を聞いて後妻に欲しいと望む。孔子は賢を賢として色に換うというたが、この人はその名のごとく賢をも女をも思うたらしい。房氏銀三十両を結納金に貰うて衛氏に改嫁し、更にその金を結納として悴《せがれ》可立のために呂月娥てふ十八歳の婦《よめ》を迎えた。しかるに可立は一向夫婦の語らいをせずに歳を過す様子、月娥怪しんで問うと、汝を迎うる結納金は母が改嫁して得たもの故、われ稼《かせ》いでこの金を母に還した上、始めて雲雨合歓を催そうと。月娥父の方へ帰ってその由を話すと、伯父が感心して三十両を工面して月娥に渡し、月娥夫の家に帰って房中でその銀を数え、厨内に収め、さて飯を炊《かし》ぎに掛った。隣家の焦黒てふ者壁間より覗《うかが》い知って、門より入り来りその銀を偸《ぬす》むを、月娥はその夫帰ってわが房に入ったと思いいた。頃刻《しばらく》して夫帰り、午飯を吃《きっ》した後、妻が夫を悦ばしょうと自室に入り見るに銀なし。どこへ持って行ったかと問うに夫は何の事か分らず、銀を取った覚えなしという。妻は夫がわが伯父が調達しくれた金でほかの女を妻に取る支度と心得、怒って縊死《いし》するところを近所の人々に救わる。その後焦黒雷に打たれて死し、腰に盗んだ銀包みがあったので事実が判った。衛思賢、可立夫婦の孝貞に感じ、三百金を可立に与え、自分が孕《はら》ませた子を成長後自分亡妻の子として引き取る約束で、可立の母房氏を可立方へ帰したとは、よく義理の分った人だ。
 かく鼠はよく物を盗む故、その巣から人に必要な物件を見出す事少なからず。前にもちょっと述べた通りハムステルてふ鼠は頬に大きな嚢ありて食物を猴《さる》の頬のように詰め込み得、常の鼠と異なり尾短し。北欧州やアジアのヒマラヤ以北に住み北欧のものは長《たけ》十五インチ尾三インチ、常の鼠より大きい。地中に込み入った巣を穿ち特に穀倉を造り、秋末に穀豆をその頬に押し込んで多量に貯え、その中に眠って極寒時を過し、二、三月になると寤《さ》めて居食いする。一疋で穀六十ポンド、また豆ハンドレッド・エートを蓄うるものありとは仰山《ぎょうさん》な。しかしこの事を心得た百姓は、その巣を掘って穀を過分に得、またその肉を常翫するから満更《まんざら》丸損《まるそん》にならぬ。これと別属ながら、同じ暮し方の鼠がアフリカにも西半球にもある。諸方で鼠が神や人に食物を与えた譚あるはこれに基づくか。支那にも一種全身鼠色で、尾やや長く欧州産の腹黒く尾短きに異なるハムステルあり。豆を好み穴倉に貯えるから豆鼠児、倉鼠児、倉官児、弁倉児など呼ばる(『皇立|亜細亜《アジア》協会北支那部雑誌』二輯十一巻五九頁)、天復中隴右の米作大豊年で、刈ろうと思う内、稲穂が大半なくなり大饑饉|出来《しゅったい》した。その時田畔の鼠穴を掘ると夥しく稲を蔵《かく》しあった。そこで人々鼠穴を窮め、五、七|斛《ごく》を獲る者あり、相伝えてこれを劫鼠
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