倉といい、飢民皆出て鼠穴に食を求め済活甚だ多し(『類函』四三二)。『古事記』に、大国主神、須勢理毘売《すせりひめ》と婚するに臨み、今も蛮民間に行わるるごとく、姫の父|須佐之男命《すさのおのみこと》が、種々と大黒主神を苦しめてその勇怯を試みる中に、鳴鏑《かぶらや》を大野の中に射てその矢を採《と》らしめ、神がその野に入った時火で囲み焼く、神出る所を知らず火に困る所へ鼠来って、内はホラホラ外はスブスブといったからそこを踏むと落ち入りて地下に隠る、その間に火は燃え行き過ぎた。その時鼠が鳴鏑を持ち来りて奉ったとある。カフィル人の説に、昔創世の神イムラ金の馬に乗り、魔王ユシュ鉄の馬に乗り、競走するに勝負決せず、創世神無数の鼠を作り出し、鼠が地を穿ち穴だらけにしたので鉄の馬踏み込んで足立たず、ついに金の馬の勝ちとなったというも似た話だ(ロバートソンの『クルジスタンのカフィル』三八四頁)。リヴィングストーンの『南阿行記』七章に、マシュエ附近に鼠多く、その穴地下に充満して人歩むごとに足を陥《おとしい》るとある。神代日本にもそのような地があったので、大国主を鼠が救うた譚も出たのだ。支那には人が鼠の穴を掘って鼠を取り食い、また鼠の貯えを盗み食うた例多く、『法苑珠林』九一に、『薩婆多論』に一切鳥獣の残食を盗めば小罪を得とあるを註して、今時|世智辛《せちがら》くなり、多く俗人あり、鼠穴を毀壊《きかい》してその貯えた粟、胡桃《くるみ》、雑果子等を盗むはこの犯罪に準ずと記す。ついでにいう、奥州の和淵神社は大晦日《おおみそか》に鰹と鮭の子を塩して供え、正月十八日に氏子が社家に集り鰹と鮮魚を下げて食い、二十八日に鮭の子を卸して食う。それまで神前にある間は鼠が食わず、鼠を神が封じたからという。また大内で甲子の祭の夜、紫宸殿の大黒柱に供物を祭り、箏《こと》一張で四辻殿林歌の曲を奏す。これもと大極殿の楽なり。この曲を舞う時、舞人甲に鼠の形を付け、上の装束も鳶色の紗に色糸で鼠を幾つもあまた縫い付くるなり(『奥羽観跡聞老志』九。『淇園一筆』)。これは昔大極殿で舞った舞いを大黒天の好む舞いとし、大黒柱を祭って宮中を鼠が荒さぬようまじのうたと見える。一昨々年冬高野の金堂に詣《もう》で見ると、人の踏まぬ畳表が非常に損じ居る。同行の老僧からこれことごとく鼠の所為だと聞いた。人気少ない宮殿などは殊に鼠害が甚だしかっただろう。
 鼠が人を助けた話は仏経にもある。『大宝積経《だいほうしゃくきょう》』七八に、王舎城の迦蘭陀竹園《からんだちくおん》は無双の勝地で、一切の毒虫なく、もし毒虫がこの園に入らば毒心がなくなる。衆生この園に入らば、貪慾、瞋恚、愚痴を発せず、昔|瓶沙王《びょうしゃおう》登極《とうきょく》の初め、諸|釆女《うねめ》とこの園に入り楽しまんとせしに、一同自ら覚《さと》りて婬欲なく戯楽を娯《たの》しまず、その時王もし仏が我国に出たら我れこの勝地を仏に献ずべしと発願《ほつがん》し、後《のち》釈尊に遇って献じたという。甚だ面白からぬ勝地だ。この竹園の名、迦蘭陀は動物の名でホトトギスの一種、学名ククルス・メラノレウクスという鳥に基づくとも、一種の鼠の名に拠るともいう(『翻訳名義集』六。アイテルの『梵漢語彙』七一頁)。『善見毘婆沙律《ぜんけんびばしゃりつ》』六に迦蘭陀は山鼠の名なり。瓶沙王諸妓女と山に入りて遊び倦《う》んで樹下に眠る。妓女四散遊戯して側にあらず、樹下の穴より毒蛇出て王を螫《さ》さんとすると、樹上より鼠下り来りて鳴くごとに蛇が穴に退き入った。王ついに鼠の声に寤《さ》まされ、さては鼠の助けで蛇害を免れたと知り、山下の村の年貢でかの鼠を養わしめ、その村を迦蘭陀すなわち鼠村と付けたとある。また仏|成道《じょうどう》していまだ久しからず。六師の異端なお盛んに行われた時、栴遮摩那耆《せんしゃまなき》てふ女がその師に使嗾《しそう》されて、日々まじめ顔で仏の説法を聴きに通う内、腹に草を包み日々膨脹せしめ、後には木鉢を腹に繋《つな》いで臨月の体を示した。時にその師、仏の説法場に至り高声に、仏は大詐欺者だ。わがこの娘を私愛してかくボテレンに仕上げたと喚《わめ》き散らした。その時帝釈一の黄鼠と化して女の裾《すそ》にあり、鉢に繋いだ緒を咬《く》い切り鉢を地に落して仏の無罪を明らかにした(『菩薩処胎経』五)。南米のカリブ人最初天より地に降った時、カッサヴァや芭蕉など有用な植物は集って一大木に生じいた。獏《ばく》一番にこれを見付け、樹下に落る果実を飽くまで食って肥え太る。カリブ人ら何卒獏がどこで果実を拾うかを知らんと勉むれど知り得ず。まず啄木鳥《きつつき》に命じ探偵せしめた。しかるにこの鳥獏を蹤跡《しょうせき》する途中ちょっと立ち留って樹をつつくと虫が出る、それを食うと素敵に旨《うま》い。人間は餓えようとままよ、自分さえ旨ければよいと気が変ってつつき続けの食い続けをやり続けた。さては誰か予を尋ぬる者ありと悟って獏は跡を匿《かく》した。一向|埒《らち》明かずとあってカリブ人、また鼠を遣わすとこやつ小賢《こざか》しく立ち廻ってたちまち獏の居所を見付けたが、獏もさる者、鼠に向いわれと同類の汝がわが食物を得る場を垢《あか》の他人の人間に告げたって、人間ほど薄情な者なければ、トドの詰まりは狡兎《こうと》死して良狗《りょうく》煮らるだ。獏の所在は漠然分りませぬと人を誤魔化し置いて毎日ここへ来てシコ玉食う方が宜《よろ》しいと言うと、鼠たちまちその意に同じカリブ人を欺いて毎日食いに出懸けた。ところが一日鼠が食い余しの穀を口辺に付けたまま眠り居る処へカリブ人が行き遇わせ、揺り醒《さ》ましてかの樹の下へ案内させ、石の斧で数月掛かってその樹を伐り分け、毎人その一片を自分の畑へ栽《う》えてから銘々専食すべきカッサヴァ圃《ほ》が出来た(一八八三年板、イム・ターンの『ギアナ印甸人《インディアン》中生活記』三七九頁)。この鼠のやり方筒井順慶流儀で余り面白くないが、とにかく人に必要な食物の在処《ありか》を教えた功はある。
 濠州土人の婦女は食物袋に必ず鼠三疋は入れる。ニウカレドニア、ニュージーランドの土人、東アフリカのマンダンダ人、インドのワッダル人など鼠を常食する者が多い(スペンセルの『記載社会学』。ラッセルの『人類史』英訳二。バルフォールの『印度事彙』三板三巻)。一九〇六年板ワーナーの『英領中|阿非利加《アフリカ》土人』には好んで鼠を食うが婦女や奉牲者に食うを禁ずとあり。而してムベワてふ小鼠殊に旨いそうで、小児ら掘り捉え炙《あぶ》り食う四葉の写真を掲げ居る。リヴィングストーンの『南阿行記』十八章には、ムグラモチと小鼠のほか食うべき肉ない地を記す。ボスマンの『ギニア記』には、その地に猫より大きな野鼠ありて穀を損ずる事夥し、その肉すこぶる旨いが、鼠と知っては欧人が嫌うから、首足と尾を去って膳に上すと載す。一六七六年マドリット板、ナワレッテ師の『支那記』六四頁にこの宣教師支那で鼠を食う御相伴《おしょうばん》をして甚だ美味と評しある。本朝には別所長治の三木籠城や滝川益氏の高松籠城に牛馬鶏犬を食い、後には人まで食うたと聞くが、鼠を食うたと見えぬ(『播州御征伐之事』。『祖父物語』)。支那では漢の蔵洪や晋の王載の妻李氏が城を守り、蘇武が胡地に節を守った時鼠を食うたという。しかし『尹文子《いんぶんし》』に周人鼠のいまだ※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《せき》(乾肉)とされないものを璞《はく》というとあるそうだから考えると、『徒然草』に名高い鰹同前、最初食用され、中頃排斥され、その後また食わるるに及んだものか。唐の張※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]《ちょうさく》の『朝野僉載《ちょうやせんさい》』に、嶺南の※[#「けものへん+僚のつくり」、395−6]民、鼠の児目明かず、全身赤く蠕《うご》めくものに、蜜を飼い、箸《はし》で夾《はさ》み、取って咬むと喞々《しつじつ》の声をなす、これを蜜喞《みつしつ》といいて賞翫するとあり。『類函』に引いた『雲南志』に、広南の儂人、飲食美味なし、常に※[#「鼬」の「由」に代えて「奚」、第4水準2−94−69]鼠《けいそ》の塩漬けを食うとあり。明の李時珍が、嶺南の人は、鼠を食えどその名を忌んで家鹿と謂うと言った。して見ると鼠は支那で立派な上饌《じょうせん》でない。一七七一年パリ板ターパンの『暹羅《シャム》史』にいわく、竹鼠は上饌なり、常鼠に似て尾赤く、毛なく、蚯蚓《みみず》のごとし。猫ほど大きく、竹を食い、殊に筍《たけのこ》を好む。家ごとに飼うに、人に馴れて、常鼠を殺せど、その害は常鼠に過ぎたりと。これは支那で竹※[#「鼬」の「由」に代えて「留」、395−12]《ちくりゅう》一名|竹※[#「けものへん+屯」、第4水準2−80−31]《ちくとん》、※[#「けものへん+屯」、第4水準2−80−31]は豚と同じく豕の子だ、肥えて豚に似る故名づく。蘆《あし》の根をも食う故、菅豚ともいう。竹の根を食う鼠で土穴中におり、大きさ兎のごとし、人多くこれを食う。味鴨肉のごとし、竹刺《ちくし》、人の肉に入りて出ざる時これを食えば立所《たちどころ》に消ゆる。福建の桃花嶺に竹多くこの鼠実に多し(『本草綱目』五一下。大阪板『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書《びんしょ》南産志』下)。これはリゾムス属の鼠で、この属に数種あり、支那、チベット、インド、マレー諸島に住む。日本にも文化の末、箱根山に鼠出で竹の根を食い竹ことごとく枯れた。その歯強くてややもすれば二重網を咬み破ったとさ(『即事考』四)。安政二年、出羽の代官からかようの鼠に関し差し出した届けの朱書に、その鼠、色赤く、常鼠より小さく、腹白く、尾短しとある由(『郷土研究』二巻、白井博士「野鼠と竹実」)。リゾムス属の物と見えぬが食い試みたら存外珍味かも知れぬ。アフリカの蘆原に穴居する蘆鼠は、アウラコズス属の鼠で肉味豚に似るから土豚の称あり。焼き食うて珍重さる(シュワインフルトの『阿非利加《アフリカ》の心』十六章)。
 それから東西洋とも鼠を医療に用いた事多く、プリニウスは鼠を引き割《さ》いて蛇に咬まれた創《きず》へ当てたらよいと言った。また鼠の肝を無花果《いちじく》に包んで豚に食わすとどこまでも付いて来ると言った。豚を盗む法だ。この法は人にもきくとあるから、イモリの黒焼きを買うに及ばぬ。ただしその人油一盃呑んだらきかぬとある。英国の民間療法に鼠を用ゆる事多い中について、鼠を三疋炙って食わばどんな寝小便でもやまるという(『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一六四一頁)。これは日本でもいう事だ。漢方には牝鼠を一切用いず。和方もさようと見えて、指の痛みを治するに雄鼠糞と梅仁《ばいにん》を粉にし飯粒でまぜ紙に付けて貼《は》るべし、雄鼠の糞は角立てあり、雌鼠の糞は丸しとある(『譚海』一五)。貝原篤信先生は、ちと鼠から咬まされた物か、猫を至って不仁な獣と貶《けな》し、鼠は肉、肝、胆、外腎、脂、脳、頭、目、脊骨、足、尾、皮、糞皆能あり用うべし。およそ一物の内、その形体処々功能多き事鼠に逾《こ》えたる物なしと賞賛した(『大和本草』一六)。
 およそ鼠ほど嫌い悪《にく》まるる物は少ないが、段々説いた所を綜合すると、世界の広き、鼠を食って活き居る人も多く、迷信ながらもこれを神物として種々の伝説物語を生じた民もあり。鼠も全く無益な物でないと判る。



底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
   1951(昭和26)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「コラン・ド・プランシー」と「コラン・ド・ブランシー」の混在は底本通りにしました。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年8月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozo
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