鋼《はがね》作りの橋を渡り、飛沫《ひまつ》四散する急流を渡り、金宝で満ちた地下の宮殿に入ったと見て寤めたと。因って衆を聚《あつ》め自身の夢と侍臣が見た所を語り、一同これはきっとその穴に財宝が蔵《かく》されおり王がこれを得るに定まりいると決した。王すなわちその穴を掘って多く財宝を得、信神慈善の業に施したという。その時侍臣が流れに架した剣の図というを見るにいわゆる小獣を鼠鼬様の物に画きある。これまた当時のバーガンジー人が人の魂は鼠鼬の状を現ずと信じた証拠だ(チャムバースの『日次書』一巻二七六頁)。これは人の魂が鼠になって、夢に伏蔵すなわち古人が財蔵を埋め隠したのを見付けたのだが、伏蔵を鼠が守った話も多い。けだし「蛇に関する民俗と伝説」に書いた通り、インド、欧州また日本でも財を吝《おし》む者死して蛇となり、その番をすると信ずると等しく、鼠もまた財宝を埋めた穴に棲《す》む事あるより、時に伏蔵を守ると信ぜられたのだ。
『類聚名物考』三三七に『輟耕録《てっこうろく》』から引いて、趙生なる者貧しく暮す、一日木を伐りに行って大きな白蛇が噬《の》まんとするを見、逃げ帰って妻に語ると白鼠、白蛇は宝物の変化《へんげ》だろうと思い、夫を勧めて共に往きその蛇に随って巌穴に入り、昔唐の賊黄巣が埋めた無数の金銀を得て大いに富んだという。今按ずるに、世俗に白鼠は大黒天の使令とし白蛇は弁財天の使令として福神の下属という、これ西土の書にも世々いう事と見ゆと記す。『葆光録』に曰く、陳太なる貧人好んで施す、かつて夜一の白鼠を見るに色雪のごとし、樹に縁《よ》って上下し、追えども去らず、陳その妻子に言いしは、衆人言う、白鼠ある処には伏蔵ありと、これを掘って白金五十錠を獲たと(『淵鑑類函』四三二)。宝永六年板『子孫大黒柱』四に『博物志』に『白沢図』という書を引いて黄金の精を石糖といえり、その状豚のごとし、これは人家にあって白鼠を妻とす云々。『宋高僧伝』二に、弘法大師の師匠の師匠の師匠のまた師匠|善無畏《ぜんむい》が烏萇国《うじょうこく》に至った時、白鼠あり馴れ遶《めぐ》りて日々金銭を献ず。予未見の書『異苑』に西域に鼠王国あり、鼠大なるは狗のごとく、中なるは兎、小なるは常の鼠のごとし、頭ことごとく白く、帯しむるに金枷《きんか》を以てす、商賈《しょうこ》その国を経過するありて、まず祀らざれば人の衣裳を噛む、沙門の呪願を得れば他なきを獲、晋の釈道安、昔西方に至り親しくかくのごときを見たという(『類函』四三二)。もと鼠は物を損じ汚す事夥しく、かつ窮する時は人や獣をも食うので、鼠のために全滅した聚落や、村を立て得なんだ土地さえあり(プリニウスの『博物志』巻八、章四三。ピンカントン『海陸紀行全集』の記事は上に引いた)、因って多くの国でこれを凶物としその鳴くを聞くを不吉とす(ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁、コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』四二六頁、アボットの『マセドニア民俗記』一〇八頁)、英国の南ノルサンプトンでは今まで無事だった家へ急に鼠が侵入すれば家人が遠からぬ内に死に、鼠が人の上を走ればその人必ず死し、病蓐《びょうじょく》辺で鼠鳴けば病人助からずという(一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁)。支那でも『論衡』に鼠一|筐《きょう》を渉《わた》れば飯|捐《す》てて食われず、古アングロ・サキソン時代に英国で犬や鼠の食い残しを知って食ったら神頌を百遍、知らずに食ったら五十遍唄わせた(一八四六年板、ライトの『中世英国文学迷信歴史論文集』巻一、頁二四一)。小アジアのユールーク人が熊や羚羊の飲んだ跡の水を文明人が飲むと自分らごとき蛮民になると信ずるごとく(一八九一年板、ガーネットの『土耳其《トルコ》女および風俗』二巻二一三頁)、鼠の残食を参れば鼠の性を受くると信じたのだ。
 かく忌み嫌わるるもの故諸獣を神とし尊ぶ例多きも鼠を拝む例は少ない。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条にも挙げていない。吾輩知る所を以てすれば、西半球にシュー人は鼠の近類たる麝香《じゃこう》鼠を創世神の一とす(一九一六年板、スペンスの『北米|印甸人《インディアン》の鬼神誌』二七一頁)。東半球には何でも中央アジアのトルキスタン辺にシュー人と等しく鼠を利害に関せず祖霊とした崇拝が大いに行われ、上述ごとく祖神がその子たる人間を護り、祈れば福利を与え、祈らずば損害を加うと信じ、支那で鼠を子《ね》年、子《ね》の方位の獣と立つる風と、インドで毘沙門を北方の守護とする経説を融通して、ついに毘沙門の後胤と称する国王も出で来れば、鼠の助力で匈奴に大捷《たいしょう》した話も出で来たと見える。而してわが邦に行わるる大黒と鼠を合せた崇拝も、実はこの毘沙門から移ったもの多く、初め厨神だったものが軍神として武士に祈らるるに及んだは、その親元たる毘沙門が富の神たると同時に軍神たるに基づく。
 さて、中央アジアで毘沙門並びに鼠の崇拝盛んだった時は、金色の大鼠を鼠の王とし、頭の白い鼠をその眷属として専ら祀ったようだ。『嬉遊笑覧』十二上にいわく、番頭の白鼠とは大黒は黒を以て北方の色とし、北方子の位なれば鼠の使者とす。番頭利に賢ければ主人富む。主人は大黒、番頭は鼠のごとしと。しかし上に引いた『異苑』の文を見ると、鼠崇拝の根本地では特に頭の白い鼠を祭ったのだから、その風が支那経由で日本に伝わり、日本でも初めは大黒の使者たる鼠を白頭に画いたであろう。先年スヴェン・ヘジン氏の『亜細亜《アジア》貫通紀行』一八九八年板を出した時、この鼠崇拝の事あるべしと思い読むに見えず、大いに失望したが、その後スタイン氏がその辺を発掘して確かに鼠神の像を獲たと知らせくれた人あり。詳細は今に聞かぬ。金色の鼠は鼠類に金色に光るもの数種あり、それを祀ったであろうと、十二年前の『太陽』に書いて置いたが、あるいは鼠王を勿体《もったい》付くるため祠僧が密《ひそ》かに金色に作り立てたかも知れぬ。『譚海』一一に徳川将軍の世にオランダ人が持ち渡った奇物の内、五色鼠は白鼠を染めたる物なりといい、『香祖筆記』七に、鳥獣毛羽の奇なる物とて黄鳥、花馬、朱毛虎、山水豹とともに朱沙鼠を挙げ、タヴェルニエーの『印度紀行』一巻八章(ホール英訳)の注に、インドで犀《さい》を闘わすにその毛を諸色で彩った、今も象をさようにするとあり。惟うに麒麟や鳳凰、それから獅子を五采|燦爛《さんらん》たるように和漢とも絵《えが》くは、最初外国から似寄った動物を染め飾り持ち来ったのに欺かれ、瑞兆として高く買ったでなかろうか。日本でも上杉家の勇将|新発田《しばた》因幡守治長は、染月毛てふ名馬の、尾至って白きを、茜《あかね》の汁で年来染むると、真紅の糸を乱し掛けたごとし。景勝の代に叛《そむ》いて三年籠城して討ち死にの時もこの馬に乗ったという(『常山紀談』)。昨年予の方へ紺紫色の雀極めておとなしきを持ち来った人あり。いかにも瑞鳥でわが徳を感じて天が祥瑞を下したと悦び、餌を与うるも食わず、吐息ついて死んだから吟味すると、何か法螺《ほら》を吹き損わせて笑いやらんと巧んで、白髪染剤で常の雀を染めその毒に中《あた》っておとなしく沈みいたと判った。
 元禄五年板、洛下俳林子作『新百物語』二に金沢辺の甚三郎という商人、貧しくなり、大黒天を勧請《かんじょう》して、甲子の日ごとに懇《ねんごろ》にこれを祀る。ある時また、甲子に当りて例のごとく燈掲げて一心に祈念するに、何処《いずこ》ともなく大きな白鼠|忽然《こつぜん》と出でて供物を食う。亭主これを見て大いに悦び、翌日友人を招きこの事を語り酒宴する。友達その白鼠は名のみ聞いて見た事なし、かつは物語の種なれば今宵祈って一目見せたまえというに、亭主|諾《うべな》い、その夜また燈を掲げ、各集り居るに案のごとく白鼠出で来る。人々見るよりアッといいて立ち騒ぐに驚き、この鼠逃げ帰るを見れば常の黒鼠となって去る。人々怪しみその跡を見るにうどんの粉多し。その通《かよ》うた壁の穴を求むると、隣りに饂飩《うどん》を商う家あり、その饂飩の粉の中に鼠棲んでこの家へ来る故白鼠と見えたと判り、皆々大笑いして帰った。亭主物うき事に思い歎くと、大黒天その夢に現じて、宵の鼠のうどん粉に塗《まみ》れ出でたるも、汝に富貴の道を教ゆべき方便であった。その鼠の通った跡を見るべしと教えられ、夜明けて見れば饂飩粉の上に鼠の足跡文字を顕わす、これを読むに「祈ればぞかかる例しに大麦の、身を粉に成して稼《かせ》げ世の中」。亭主これより遊興をやめ、一向商業を励んで富貴の家となった。人は神の徳に依って運を添うといいしは誠なるかなとある。怪しい話ながら動物崇拝など大抵こんな事で、金色の鼠王なども当時の中央アジア人に取っては、わが国王こそ毘沙門の正統で、現にその使物が生身でわれわれの供物を納受しましますという信念を堅め、中央アジアの文化を高むるに大いに力あった事と惟《おも》う。
 一九〇四年ロンドン発行、『人』雑誌一二二頁に、ギリシアのシクラデス諸島では、黒い諸動物は吉兆、白いのは不祥と信ずと記す。一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁に、英国の南ノーサンプトンで病室を白鼠が過ぐると見れば、患者必ず死すと信ずと載す。これらは流変《りゅうがわ》りで例外に近く、大抵の国民は白鼠を吉祥とする。『嬉遊笑覧』に、『太平広記』にいわく、白鼠身|皎玉《こうぎょく》のごとく白し。耳足紅色、眼※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》また赤きもの、すなわち金玉の精なり。その出づる所を伺い掘れば金玉を獲《う》べし、鼠五百歳なればすなわち白し。耳足紅からざるものは常鼠なり。『抱朴子』に曰く、鼠寿三百歳なり、百歳に満つる時は色白く、善く人に憑《たの》みて下る、名を仲という。一年中の吉凶および千里外の事を知る云々。白色に瑞物多ければなり、世に珍かなるものを貴むは習いなり。古ローマ人や今のボヘミヤ人それからビーナン等に住むマレー人いずれも白鼠を吉兆とし(プリニウス八巻八二章。フレザー『金椏篇』初板三章。一八五六年シンガポール刊行『印度群島および東亜細亜雑誌』二輯二巻一六五頁)、本朝には『治部式』所載祥瑞百四十四種中に鼠全く見えねど、〈大同四年三月|辛酉《かのととり》山城国白鼠を献ず〉(『日本|後紀《こうき》』一七)などあれば、白鼠は瑞とされざるまでも珍とされたに相違なし。これを大黒天の使い物とする事、『源平盛衰記』一に清盛|内裏《だいり》で怪鼠を捕うる記事中、鼠は大黒天神の仕者なり、これ人の栄華の先表なりとある。特に白鼠と書いていないが、多分その頃既に白鼠を尊んだものと察する。
 インドのガネサ、中央アジアの毘沙門、日本の大黒天の使い物としてほど盛大にないが、多少鼠を神物と信ずる風習はこの三国のほかにもある。またこの三神に関係なしにも存した。古エジプト人は上述クサタナ国の鼠王同様ヒミズを神とし祈って大敵を破った(ローリンソンの『ヘロドトス』二巻一八九章)。これは英国でシュリウ・マウスと称え、俗に鼠と心得、支那で地鼠、本邦でノラネまたジネズミ、日光を見れば死すとてヒミズと呼び、鼠に似た物だがその実全く鼠と別類だ。コンゴ国には鼠を神林の王とし、バガンダ人は、ムカサ神がキャバグ王のその祠堂を滅せしを怒り、群鼠をして王の諸妃を噛み殺させた話を伝う(一九〇六年板、デンネットの『黒人の心裏』一五三頁。一九一一年板ロスコーの『バガンダ人』二二四頁)。日本にも三善為康《みよしのためやす》の『拾遺往生伝』中に、浄蔵大法師を謗《そし》った者その日より一切の物を鼠に食わる。本尊夢の告げに予《かね》てより薬師の十二神将が浄蔵を護る、その日の宿直が子の神だったから鼠害を受くるのだと。子の日の神将名は毘羯羅《びから》、これは毘沙門や大黒と別口の神で、中央アジアで支那の十二支をインド出の十二神に配して拵えたものと見える。
 かく鼠が神の使となって人を苦しむるよりこれを静めんとて禁厭《まじない》を行うたり、甚だしきは神と斎《いつ》き祈った例もある。クルックの『北印度の俗
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