ったので、匈奴軍|詮術《せんすべ》を知らず大敗した、王、鼠の恩を感じこれを祭り多く福利を獲、もし祭らないと災変に遭《あ》うと出《い》づ。日本にも『東鑑』に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し甲斐源氏を伐《う》たんと富士|北麓《ほくろく》に宿った夜、その兵の弓絃を鼠に噛み尽くされついに敗軍したとあり。ヘロドトスの『史書』にもエジプト王がこの通り鼠の加勢で敵に勝った話を出す。『宋高僧伝』一には天宝中西蕃、大石、康の三国の兵が西涼府《せいりょうふ》を囲む、玄宗、不空三蔵をして祈らしむると、毘沙門の王子、兵を率いて府を援《すく》い、敵営中に金色の鼠ありて弓絃を皆断ったので大勝利となり、それより城楼|毎《つね》に天王像を置かしめたと記す。天主閣の初めという人もある。右の諸文で唐時既に鼠を毘沙門の使者としたと知れる。
今日インドでは鼠をガネサの乗り物とす。大黒はシワ大神の部属というが、ガネサはシワの長男だ。シワの妻|烏摩后《うまこう》、子なきを憂え、千人の梵士を供養してヴィシュヌに祈り、美妙の男子を生み諸神来賀した。中に土星ありて土ばかり眺めて更にその子を見ず。烏摩后その故を問うと、某《それがし》ヴィシュヌを念ずるに一心にして妻がいかにかの一儀を勤むるも顧みず「川霧に宇治の橋姫朝な/\浮きてや空に物思ふ頃」ほかにいいのがあるんだろうと、九月一日の東京|然《ぜん》と大焼けに焼けた妻が拙者を詛《のろ》うて、別嬪《べっぴん》でも醜婦でも、一切の物、わが夫に見られたらたちまち破れおわれと詛うた。因って新産の御子に見参せぬと、聞きもおわらず、烏摩后、子自慢の余りそんな事があるものか、新産を祝いに来てその子を見ないは一儀に懸りながらキッスをしないようなものと怨むから、土星しからば御後悔ないようにと念を押してちょっと眺むると新産のガネサの頸たちまち切れて飛び失せた。わが邦にも男の持戒をいやに疑うて災を招いた例が『野史』一二六に見ゆ。永禄十二年十月武田信玄三増山の備えを小田原勢が撃って大敗した時、北条美濃守|氏輝《うじてる》、既に危うきに臨み心中に飯綱権現《いいづなごんげん》を頼み、只今助けくれたら十年間婦女を遠ざけますと誓うた。そこへ師岡某来り馬を譲り、禦《ふせ》ぎ戦う間に氏輝は免《のが》れた。帰宅後妻君がいかに思いの色を見せても構い付けずこの夫人は幾歳だったか書いていないが、その時氏輝の同母兄|氏政《うじまさ》が三十三だから氏輝は三十歳ばかり、したがって夫人も二十七、八、縮れ髪たっぷりの年増盛りだったでしょう。〈婦女の身三種大過、何ら三と為す、いわゆる婦女の戸門寛大なる、両乳汁流るる、これ三種と名づく〉(『正法念処経』四五)、されば「都伝摸《とても》年増|東《と》夷辺伐《いえば》広|夷《い》様」その広夷《ひろい》野《の》に飽き果て散播都天門《さわっても》呉弩《くれぬ》と嘆《かこ》ちて自害した。氏輝は遺書を見て不便がり、一生女と交わらなんだとあるが、後年秀吉の命で自裁した時、愛童山角定吉十六歳、今打ち落した氏輝の首を懐《いだ》いて走った志を家康感じて罰せず、麾下《きか》に列したとある(『野史』一二六)は自分の家から火を出しながら大睾丸の老爺を負って逃げたので褒美《ほうび》されたような咄し。けだし氏輝は女は遠ざけたが、「若衆|遠《を》春留《する》波《は》構《かま》はぬ庚《かのえ》さる」小姓を愛し通したのだ。さて烏摩后首なき子の骸を抱いて泣き出し、諸神|倣《なろ》うてまた泣く時、ヴィシュヌ大神|金翅鳥《こんじちょう》に乗りてブシュパブハドラ河へ飛びゆき、睡り象の頭を切り、持ち来り、ガネサの頭に継いでよりこの神今に象頭だ。これ本邦慾張り連が子孫七代いかに落ちぶれても頓着《とんじゃく》せず、わが一代儲けさせたまえと祈って油餅を配り廻り、これを食った奴の身代皆自分方へ飛んでくるように願う歓喜天《かんぎてん》また聖天《しょうてん》これなり。今もインド人この神を奉ずる事盛んで、学問や事始めや障碍《しょうげ》よけの神とし、婚式にも祀《まつ》る。障碍神《しょうげじん》毘那怛迦《びなたか》も象鼻あり。象よく道を塞《ふさ》ぎまた道を開く故、障碍除障碍神ともに象に形どったのだ。日本でも聖天に縁祖また夫婦和合を祈り、二股大根を供う(一八九六年板クルックの『北印度俗教および民俗』一巻一一一頁。アイテル『梵漢語彙』二〇二頁。『増補江戸咄』五)。その名を商家の帳簿に題し、家を立つる時祀り、油を像にかけ、餅や大根を供うるなどよく大黒祭に似る。また乳脂で※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]《あ》げた餅を奉るは本邦の聖天|供《ぐ》の油※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]げ餅に酷似す。その像《かたち》象首一牙で、四手に瓢と餅と斧と数珠をもち、大腹黄衣で鼠にのる(ジャクソンの『グジャラット民俗記』一九一四年ボンベイ板、七一頁)。仏典にも宋の法賢訳『頻那夜迦天《びなやかてん》成就儀軌経』にこの神の像を種々に造り、種々の法で祭り、種々の願を掛くる次第を説きある。聚落《しゅうらく》人をみな戦わせ、人の酒を腐らせ、美しい童女をして別人に嫁ぐを好まざらしめ、夢中に童女と通じ、市中の人をことごとく裸で躍らせ、女をして裸で水を負うて躍らせ、貨財を求め、後家に惚れられ、商店をはやらなくし、夫婦を睦《むつま》じくし、自分の身を人に見せず、一切人民を狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に倶移等来《ぐいとこ》させ、帝釈天に打ち勝ち、人を馬鹿にしてその妻女男女を取り、人家を焼き、大水を起し、その他種々雑多の悪事濫行を歓喜天のおかげで成就する方を述べある。ダガ余り大きな声で数え立てると叱られるからやめる。
斧と槌がもと同器だった事は上に述べた。晋の区純《おうじゅん》は鼠が門を出かかると木偶《でく》が槌で打ち殺す機関《からくり》を作った(『類函』四三二)。北欧のトール神の槌は専ら抛《なげう》って鬼を殺した。そのごとく大黒の槌はガネサの斧の変作で、厨《くりや》を荒らす鼠を平らぐるが本意とみえる。また現今ヴィシュヌ宗徒の追善用の厨器にガネサを画くなどより、大黒が全然ガネサの変形でないまでもその形相は多くガネサより因襲したと惟《おも》わる。唐の不空が詔を奉じて訳した『金剛恐怖集会方広軌儀観自在菩薩三世最勝心明王経』という法成寺からツリを取るほど長い題目の仏典に、摩訶迦羅天《まかからてん》は大黒天なり、象皮を披《ひら》き横に一槍を把《と》る云々。石橋君がその著八六頁に『一切経|音義《おんぎ》』より文、『諸尊図像鈔』より図を出したのをみるに、日本化しない大黒天の本像は八|臂《ぴ》で、前の二手に一剣を横たえた状が、現今インドのガネサが一牙を口吻《こうふん》に横たえたるに似、後ろの二手で肩上に一枚の白象皮を張り、而《しか》して画にはないが文には足下に一の地神女あり、双手でその足を受くとある。象皮を張ったは大黒もと象頭のガネサより転成せしを示す。ボンベイの俗伝にガネサその乗る所の鼠の背より落ち、月これを笑うて罰せられたという事あり(クルック、一巻一三頁)。大黒像もガネサより因襲して鼠に乗りもしくは踏みおったが、梵徒は鼠を忌む故(一九一五年ボンベイ板、ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁)、追い追い鼠を廃し女神を代用したと見える。
明治二十四、五年の間予西インド諸島にあり落魄《らくはく》して象芸師につき廻った。その時象が些細な蟹や鼠を見て太《いた》く不安を感ずるを睹《み》た。その後《のち》『五雑俎』に象は鼠を畏《おそ》るとあるを読んだ。また『閑窓自語』を見るに、享保十四年広南国より象を渡しし術を聞きしに「この獣極めて鼠をいむ故に、舟の内に程《ほど》を測り、箱のごとき物を拵え鼠をいれ、上に綱をはりおくに、象これをみて鼠を外へ出さじと、四足にてかの箱の上をふたぐ、これに心を入るる故に数日船中に立つとぞ。しからざれば、この獣水をもえたる故に、たちまち海を渡りて還るとなん」とあり。この事和漢書のほかまたありやと疑問を大正十三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一四六巻三八〇頁に出したを答えが出ず、かれこれするうち自分で見出したから十四年七月の同誌へ出し英書にこの事記しあるを英人に教えやった。すなわち一九〇五年ロンドン出板ハズリットの『諸信および俚伝』一の二〇七頁に「観察に基づいた信念に、象は野猪の呻き声のみならずトカゲなどの小さい物に逢っても自ら防ぐ事むつかしと感じ駭《おどろ》くという事あり、欧州へ将来する象を見るに藁の中に潜むハツカ鼠を見て狼狽《ろうばい》するが常なり」と載す。かく象が甚《いた》く鼠を嫌う故、大黒が鼠を制伏した体を表わして神威を掲げた事、今日インドで象頭神ガネサが鼠にのる処を画き、昔ギリシアのアポロ神がクリノスより献じた年供《ねんぐ》を盗んだ鼠を射殺したので、その神官が鼠に乗る体を画いたと同意と考う。と書きおわってグベルナチス伯の『動物譚原』二の六八頁を見るに、ガネサは足で鼠を踏み潰すとある故、ますます自見の当れるを知った。古ローマの地獄王后ブロセルビナの面帽は多くの鼠を散らし縫った(一八四五年パリ板、コラン・ド・ブランシーの『妖怪辞彙』三九三頁)。鼠は冬蟄し、この女神も冬は地府に帰るを表わしたのだ。それから推して大黒足下の女神は鼠の精と知れる。されば、増長、広目《こうもく》二天が悪鬼毒竜をふみ、小栗《おぐり》判官《はんがん》、和藤内《わとうない》が悍馬《かんば》猛虎に跨《またが》るごとく、ガネサに模し作られた大黒天は初め鼠を踏み、次に乗る所を像に作られたが、厨神として台所荒しの鼠を制伏するの義は、上述中禅寺の走り大黒くらいに痕跡を留め、後には専らこれを愛し使うよう思わるるに及んだのだ。『淇園《きえん》一筆』に、大内《おおうち》で甲子祭《きのえねまつり》の夜|紫宸殿《ししんでん》の大黒柱に供物を祭り、箏《こと》一張で四辻殿林歌の曲を奏す。これ本より大極殿の楽なり、この曲を舞う時、舞人甲に鼠の形をつけ、上の装束も色糸で幾つも鼠を縫い付くるとある。これも大黒に縁ある甲子の祭りにその使い物の鼠を愛し翫《あそ》ぶようだが、本は鼠が大黒柱を始め建築諸部を損ぜぬよう、鼠を捉うるまねしてこれを厭勝《ようしょう》したのであろう。
今日ボンベイ辺の下等民は鼠を鼠叔父と呼び、鼠と呼ぶを不吉とす。これは本邦で鼠を正月三ヶ日はヨメとのみ言った同然|忌詞《いみことば》だが、真に叔父死して鼠となると思う者もあるらしい(クルック、二四二頁)。ドイツの俗信に死人の魂は鼠となる、家の主人死すれば家内の鼠までも出で去るという。サルマチア王ポペルス二世その伯叔父を暗殺し、屍骸を川に投げ込むと鼠となって王夫婦を殺した(グベルナチス、二巻六七頁)。ポーランド王ポピエル悪虐|度《ど》に過ぎしを諫《いさ》めた者あり。王病と詐《いつわ》りその輩を召して毒殺し、その屍を湖に抛《な》げ入れて安心し酒宴する席へ、夥しい鼠が死体から出て襲来した。王|惧《おそ》れて火で身を囲うと鼠ども火を潜《くぐ》って付け入る。妻子同伴で海中の城に遁《のが》れると鼠また来って食い殺した(ベーリング・グールドの『中世志怪』四五三頁)。チュリンギアで下女一人眠り、朋輩は胡桃《くるみ》を剥《は》ぎいた。見ると眠った者の口から魂が鼠となって這い出し窓外に往った。起せど起きぬから他室へ移した、暫《しばら》くして戻った鼠が下女の体を求めど見えぬ故消え失せた。同時に下女は睡ったまま死んだという(コックスの『民俗学入門』四三頁)。本邦でも『太平記』に見えた頼豪《らいごう》阿闍梨《あじゃり》、『四谷怪談』のお岩など冤魂が鼠に化けたとした。西暦六世紀にバーガンジー王たりしゴンドランが狩りに疲れて小流の側に睡る。侍臣が見て居る内、王の口より小さい獣一疋出て河を渡らんとして能わず。侍臣剣を抜きて流れに架すとそれを歩んで彼方《かなた》の小山の麓《ふもと》の穴に入り少時の後出て剣を踏んで王の口に還り入った。その時王|寤《さ》めて、われ稀代の夢を見た、譬《たと》えば磨いた
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング