戯れに詩を作りていわく、〈宿房の大黒晨炊を侑む、合《まさ》に若耶渓《じゃくやけい》の女の眉を掃くべきに、好在《こうざい》忘心一点もなし、服はただ※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]布《そうふ》にして語は蛮夷なり〉。意味はよく判らないがその頃はや夷子《えびす》、大黒《だいこく》を対称しただけは判る。高田|与清《ともきよ》は『松屋筆記《まつのやひっき》』七五に大黒の槌袋に関し『無尽蔵』巻四を引きながら、巻三の僧の妻を大黒という事は気付かなんだものか。
永禄二年公家藤原某作てふ『塵塚《ちりづか》物語』巻三に卜部兼倶《うらべかねとも》説として、大黒というはもと大国主《おおくにぬし》の命《みこと》なり、大己貴《おおなむち》と連族にて昔天下を経営したもう神なり。大己貴と同じく天下を運《めぐ》りたもう時、かの大国主袋のようなる物を身に随えてその中へ旅産を入れて廻国せらるるに、その入れ物の中の糧を用い尽しぬればまた自然に満てり。それに依《よ》って後世に福神といいて尊むはこの謂《いわ》れなりと云々。しかしてその後《のち》弘法大師かの大国の文字を改めて大黒と書きたまいけるとなりと記す。大黒天は大国主命を仏化したという説は足利氏の代に既にあったので、『古事記』に大国主の兄弟八十神各|稲羽《いなば》の八上《やかみ》姫を婚せんと出で立つに、大国主に袋を負わせて従者として往った話あり。本居宣長その賤役たるを言い、事功の人に後《おく》るる者を今も袋持ちというと述べた。海外にもマオリ人は背に食物を負うを賤民とす(一八七二年パリ板、ワイツとゲルランドの『未開民人類学』六巻三四五頁)。大国主も糧袋を負うたと見え、大黒神も飲食不尽の金嚢を持った所が似ているから、大国主の袋をも不尽の袋と見て二神を合一したのだ。
次は槌だ。『譚海』一二に、日光山には走り大黒というあり、信受の者|懈怠《けたい》の心あらば走り失《う》せてその家に座さず、殊に霊験ある事多し、これは往古中禅寺に大なる鼠出て諸経を食い敗り害をなせし事ありしに、その鼠を追いたりしかば下野《しもつけ》の足緒《あしお》まで逃げたり。鼠の足に緒を付けて捕えて死にたるよりそこを足緒というとぞ、足緒は足尾なり。さて死にたる鼠の骸に墨を塗りて押す時はそのまま大黒天の像になりたり。それより日光山にこの鼠の死にたる骸を重宝して納め置き、今に走り大黒とて押し出す御影なりと記す。一昨年某大臣、孟子がいわゆる大王色を好んで百姓とともにせんとの仁心より頼まれた惚れ薬の原料を採りに中禅寺湖へ往った時、篤《とく》とこの大黒を拝もうと心掛けて滞在して米屋旅館に、岩田梅とて芳紀二十三歳の丸ぼちゃクルクル猫目《ねこめ》の仲居頭あり。嬋娟《せんけん》たる花の顔《かん》ばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、鬢《びん》のほつれを掻き立てて枕《まくら》のとがを憾《うら》めば二階から人が落ちる。南方先生その何やらのふちから溢《あふ》るるばかりの大|愛敬《あいきょう》に鼠色の涎《よだれ》を垂らして、生処を尋ねると、足尾の的尾の料理屋の娘というから十分素養もあるだろう、どうか一緒に走り大黒、身は桑門《そうもん》となるまでも生身《なまみ》の大黒天と崇め奉らんと企つる内、唐穴《からっけつ》になって下山しとうとう走り大黒を拝まなんだ。全く惚れ薬取りが惚れ薬に中毒したのだ。その節集古会員上松蓊君も同行したから彼女の尤物《ゆうぶつ》たる事は同君が保証する、あの辺へ往ったら尋ねやってくれたまえ。
右の『譚海』の文に拠れば鼠が神になって大黒天と現じたようだが、『滑稽雑談』二一には、大黒天神は厨家豊穣の神なるが故に、世人鼠の来って家厨の飲食倉庫の器用を損ずるをこの神に祈る時、十月の亥の日を例として子《ね》の月なる十一月の子《ね》の日を(祭りに)用ゆるなるべしと記す。『梅津長者物語』には鼠三郎、野らねの藤太等の賊が長者の宅を襲うと、大黒真先に打って出で打ち出の小槌《こづち》で賊魁《ぞくかい》を打ち殺す事あり。これでは大黒時に鼠や賊を制止|誅戮《ちゅうりく》し、槌は殺伐の具となって居る。
槌はいかにも大黒の附き物で、繁昌をこの神に祈って鼠屋また槌屋と家号したのがある。京で名高い柄糸《つかいと》を売る鼠屋に紛らわして栗鼠《りす》屋と名乗る店が出た事あり(宝永六年板『子孫大黒柱』四)。伊勢の御笥作り内人《うちんど》土屋氏は昔槌屋と称え、豪富なりしを悪《にく》み数十人囲み壊《やぶ》りに掛かりかえって敗北した時、荒木田守武《あらきだもりたけ》の狂歌に「宇治武者は千人ありとも炮烙《ほうろく》の槌一つにはかなはざりけり」、蛆虫《うじむし》を宇治武者にいい做《な》したのだ(石崎文雅『郷談』)。それから娼家には殊に槌屋の家号多く、例せば宝永七年板『御入部伽羅女《ごにゅうぶきゃらおんな》』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋の抱《かか》え遊女|黛《まゆずみ》、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで行平鍋《ゆきひらなべ》を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年|菅専助《すがせんすけ》作『傾城恋飛脚《けいせいこいのたより》』で全国に知れ渡り、「忠兵衛《ちゅうべえ》は上方者《かみがたもの》で二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え梅川《うめがわ》じゃ。
槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が吉良《きら》邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。
だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり(『書紀』七)、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て朱亥《しゅがい》が晋鄙を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ(マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁)。わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら鼈甲《べっこう》柄の槍を許すとか、本多平八の蜻蜒《とんぼ》切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威の竭《つ》きたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣を揮《ふる》えば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災を遁《のが》れ飛び去った由(『淵鑑類函』二二三)。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴と尊んだらしい。カンボジアでも伝来の金剣を盗まば王となり、これなくば太子も王たるを得ず(『真臘《しんろう》風土記』)。支那で将軍出征に斧鉞《ふえつ》を賜うとあるは三代の時これを以て人を斬ったからで、『詩経』に武王鉞(マサカリ)を執ればその軍に抗する者なかったとある。上古の人が遺した石製の斧や槌は雷斧、雷槌など欧亜通称して、神が用いた武器と心得、神の表徴とした。博物館でしばしば見る通り、中には斧とも槌とも判らぬ間《あい》の子的の物も多い。王充の『論衡』に、漢代に雷神を画くに槌で連鼓を撃つものとしたとあれば、その頃既に雷槌という名はあったのだ。古ギリシアローマともにかかる石器を神物とし、今日西アフリカにおけるごとく、石斧に誓うた言をローマ人は決して違《たが》えず。契約に背《そむ》いた者あれば祝官石斧を牲豕に投げ付けて、弁財天また槌を持つらしい。『大方等大集経《だいほうどうだいじっきょう》』二二には、過去九十一劫|毘婆尸仏《びばしぶつ》の時、曠野菩薩誓願して鬼神を受けて悪鬼を治す。金剛槌の呪の力を以て一切悪鬼をして四姓に悪を為《な》す能わざらしむ。『一切如来大秘密王|微妙大曼拏羅経《みみょうだいまんだらきょう》』一には、一切悪および驚怖障難を除くに普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徴としたほど見るべし。仏教外にはエトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。本邦にも善相公《ぜんしょうこう》と同臥した侍童の頭を疫鬼に槌で打たれ病み出し、染殿后《そめどののきさき》を犯した鬼が赤褌に槌をさしいたといい、支那の区純《おうじゅん》ちゅう人は槌で鼠を打ったという(一八六九年板、トザーの『土耳其《トルコ》高地探究記』二巻三三〇頁。『政事要略』七〇。『今昔物語』二〇の七。『捜神後記』下)。いずれも槌がもと凶器たり、今も凶器たり得るを証する。(大正十五年九月八日記。蒙昧《もうまい》の民がいかに斧を重宝な物とし、これを羨んだかは、一八七六年板ギルの『南太平洋の神誌および歌謡』二七三頁註をみて知るべし。)ジュピテル大神、この通り違約者を雷で打てと唱えた。北欧では誓約に雷神トールの大槌ムジョルニルの名を援《ひ》いてした。それが今日競売の約束固めに槌で案《つくえ》を打つ訳である(一九一一年板ブリンケンベルグの『雷の兵器』六一頁)。
刀鎗弓矢の盛んに用いられた世に刀鎗を神威ありとしたごとく、石器時代には斧や槌が武威を示す第一の物だった遺風で、神威を斧や槌で表わす事となり、厨神大黒天もなかなか武備も抜かっておらぬという標《しる》しに槌を持たせたのが、後には財宝を打ち出す槌とのみ心得らるるに及んだと見える。『仏像図彙』に見る通り観音二十八部衆の満善車王も槌を持ち、日本でも叡山の鼠禿倉の本地毘沙門《ほんじびしゃもん》といい(『耀天記《ようてんき》』)、横尾明神は本地毘沙門で盗を顕《あら》わすために祝《いつ》き奉るという(『醍醐寺雑事記』)などその痕跡を留むる。
石橋君は大黒天に鼠はもとクベラ神像と混じたので、その像は金嚢その他の宝で飾った頭巾を戴き玉座に踞し傍に金嚢から財宝をまく侍者あり。後には侍者の代りに鼠鼬となった。日本の大黒が嚢を負い鼠を随えるはこれに因るという人ありと言われた。クベラすなわち毘沙門で、ヒンズー教の説に梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て梵天王に帰した。梵天王これを賞して不死を与え福神とした。『ラマヤナ』にしばしばクベラを金と富の神と称えあれど、後世インドで一向|持囃《もてはや》されず、その画も像も見及ばぬ(一九一三年板ウィルキンスの『印度鬼神誌』四〇一頁。アイテルの『梵漢語彙』一九三頁)。これに反しインド以北では大いに持囃して福神毘沙門と敬仰さる。ヒンズー教仏教ともにこの神を北方の守護神とし、支那には古く子《ね》は北方でその獣は鼠としたるに融合して、インド以北の国で始めて鼠をクベラすなわち毘沙門の使い物としたのだ。山岡俊明等このインド以北の支那学説とインド本土の経説の混淆《こんこう》地で作られた大乗諸経に見ゆるからとて、支那の十二支はインドから伝うなどいうも、インドに本《もと》五行の十二支のという事も、鼠を北方の獣とする事も、毘沙門の使とする事もない(『人類学雑誌』三四巻八号、拙文「四神と十二獣について」参看)。されば石橋君が聞き及んだクベラ像はインドの物でなくて、多少支那文化が及びいた中央アジア辺の物だろう。中央アジアに多少これを証すべき伝説なきにあらず。十二年前「猫一疋から大富となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ国(今のコーテン)王は毘沙門天の後胤《こういん》という。昔|匈奴《きょうど》この国に寇《こう》した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から甲冑から弓絃《ゆづる》まで、紐《ひも》や糸をことごとく鼠群が噛み断
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