と言った。西アジアのオッセテ人が物を盗まれると巫《みこ》に告げる。すると巫は猫を抱《かか》えて平素見込みの悪い奴を訪い、盗んだ物を返さぬと汝の先祖の霊魂をこの猫が苦しめるぞと言うと必ず返す(一八五四年英訳ハクストハウセン著『トランス・カウカシア』三九九頁)。朝鮮でも盗難の被害者は嫌疑者の家の隣宅に往き、某の品を盗まれたから不日《ふじつ》猫を蒸し殺すと吹聴《ふいちょう》すると、盗人怖れて盗品を窃《ひそ》かに還付す(『人類学雑誌』三十巻一号二四頁)。いずれも猫は恨み深く邪気|勝《まさ》った獣故、盗人のために殺され怨《うら》んで祟るからという。無論欧亜とも多く猫を魔物とするからかかる訳もあるが、盗品発見に特にこれを使うは、本《もと》盗人と鼠と一視したに由るらしく、天主教の弁護士の守本尊イーヴ尊者像に猫像を添うるもそんな事に起ると惟う(一五六六年板アンリ・エチアンヌの『エロドト解嘲』一)、これほど嫌わるる鼠でも弁護のしようはあるもので、ウッドの『動物図譜』一に、鼠というものなくば大都市は困るであろう、地下の溝涜《こうとく》に日々捨て流す無量の残食を鼠が絶えず食うからどうやらこうやら流行病も起らぬ、それ故適宜にその過殖を制したら鼠は最も有用な動物だ。また鼠は甚だ清潔を好み、食い終るごとに身を洗い熱心に身を粧う、かつ食物の嗜《この》み甚だ優《すぐ》れ、食物十分な時はむやみに食わず、ただし餓ゆる時は随分汚物をも食う、肉店に鼠群が入る時牛の頸や脛を顧みず、最上の肉ばかり撰み食うとあって、ちと鼠から分け前でも貰ったらしいほど讃《ほ》めて居る。この書は鼠からペストなどが蔓延する事の知れない内に筆せられた物で、かかる気散じな事を書いたのだ。しかしペストを伝うるはどの鼠でも皆|然《しか》りでなくて、伝えぬ種類もあるというから、病を伝うる奴を殺し尽して、伝えない奴を大いに繁殖させ、下水の掃除を一手受け持ちと任じたらよいようだが、帝都復興以上の難件だろう。ついでに述ぶるは、予往年『ネーチュール』と『東洋学芸雑誌』へ出した通り、西洋は知らず、東洋で鼠とペストの関係についての古い記録は、まず清の洪亮吉《こうりょうきつ》の『北江詩話』が一番だ。その巻四に趙州の師道南は今望江の令たる師範の子で生まれて異才あり、三十歳ならずに死す、遺詩を『天愚集』と名づけ、すこぶる新意あり云々、時に趙州に怪鼠ありて白日人家に入り、すなわち地に伏し血を嘔《は》いて死す。その気に染まる人また立所《たちどころ》に命を殞《おと》さざるなし、道南鼠死行一篇を賦し、奇険怪偉、集中の冠たり、数日ならざるに道南またすなわち怪鼠病で死んだも奇だとある。確かに鼠がペストを伝えたのだ。洪亮吉は今大正十三年より百十五年前に七十三で死んだ人だから、この一件は大略今から百五十年ほど昔の事であろう。またついでに述ぶ、西アジアにイエジジ宗あり、その徒キリストを神の子で天使が人と生まれた者とし、アブラム、マホメットなどを予言者と尊ぶが、キリストを特に崇《あが》めず。キリスト教徒がもっとも嫌う魔王サタンを専ら尊び、上帝初め魔王に全権を委ねて世界を作らせ宇宙を治めしめたが、後自分を上帝同等に心得違い、驕慢の極みついに上帝の機嫌を損じて御前より追放された。しかしついには魔王の前功を懐《おも》うて復職され、この世はその掌握に帰すべしといいて、ひたすら魔王を拝み憑《たの》む。復活祭にキリストを祭るにただ一羊を牲するに、魔王の祭祀には三十羊を牲す。珍な事には、その徒皆両手で盃を持つ事日本人と異ならず、また魔王の名を言わず孔雀《くじゃく》王といい、孔雀をその象徴とす。欧州で孔雀の尾を不祥とするは、キリスト教で嫌う魔王の印しだからと考える(上に引いたハクストハウセンの書二六〇頁。一八四〇年ニューヨーク板サウスゲイトの『アルメニア等旅行記』一巻二二八頁。一九二一年刊『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯八巻拙文「孔雀の尾」)。
 予かつて故土宜法竜師の依頼でこのイエジジ宗の事を種々調べたが十分判らなんだ。一通り聞いたところを考察すると、その宗旨はざっと、上帝は至聖至善だから別段拝まないでも悪くは感ずまい、恐るべきは魔王で、こやつに立腹されると何を仕出かすか知れやしないから、十分|慇懃《いんぎん》に拝むがよいという心懸けらしく、かつ上に述べたごとく、こんな極悪の者でも何か往く往く間に合う見込みがあればこそ世にあるのだという想像で、これを拝むと時々|吉《よ》い事にも遇うので、魔王宗に凝り固まったと見える。パーシー宗徒は猫も鼠も魔物としながら猫ほどに鼠を忌まず(一六七六年パリ板タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』四四二頁)。猫を特に嫌うよりの反動だ。それから上述露国の旧信者が油虫も天より福を持ち下ると言い、『日次紀事』に初寅の日鞍馬寺で福授けの蜈蚣《むかで》を売ったとあるなど、魔王でも悪虫でも拝めば無害で役に立ちくれると信じての事で、世に近隣の小言を顧みず、ペスト流行にもかかわらず、鼠を多く活かし供養して大黒天に幸いを求むる者の心また同じ。故|陸奥《むつ》伯の父伊達自得翁この田辺に久しく囚われたうち筆した『余身帰り』に「鼠の夜ごとに出でくるを、これならで訪う物もなき宿なりと思うも哀れにて、果子など投げやるにようよう馴《な》れ顔にて経など読み居る机の前につい居るもおかし。ともすれば油を吸い燈をけすほどに、人々|悪《にく》みて打ち殺してんなどいわば、これに向いてわれは許すとも人は赦さず、今はな来そ、よくあらじといい聞かすを心得たりけん、その後はいつしかこずなりぬ。かくてほどへてある夜枕|辺《べ》の畳を咬み鳴らす音す。驚きて見れば鼠なり。ししと追わば逃げ入りぬ。再び眠るほどにまた来りて咬み鳴らす事|糸《いと》騒がし。枕を擡《もた》ぐればまた逃げ入る。何を求むるにか、食物のある所にもあらず。枕近く来りて眠りを驚かすはいかなる心ならんと思うほどに、『五雑俎』に、占書に狼恭し鼠拱すれば主の大吉といえりという条に、近時の一名公早朝靴を穿《うが》たんとするに、すでに一足を陥れて鼠あり、人のごとく立ちて拱す、再三叱れども退かず、公怒り一靴を取りてこれに投ぐるに、中に巨|※[#「兀のにょうの形+虫」、第4水準2−87−29]《き》尺余なるありて墜《お》ちたり、鼠すなわち見えず、憎むべきの物を以てまた能く人のために患を防ぐは怪しむべしとあるを思い出で、もしさる事もやと衾《ふすま》を※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《かか》げ見れば糸《いと》大いなる蜈蚣《むかで》の傴《くぐ》まりいたりければすなわち取りて捨てつ。糸|可笑《おか》しくもくるやと思いいるにさて後は音なくなりぬ。偶然の事なめれども、もしまた前の報いしたるならば下劣の鼠すらなお恩は知るものと哀れなり」。
 ジスレリの『文海奇観』に、禁獄された人が絃を鼓する事数日にして鼠と蜘蛛《くも》が夥しく出で来り、その人を囲んで聴きおりさて弾じやむと各《おのおの》退いた。さて毎度弾ずるごとに大入り故、獄吏に請いて猫を隠し置き、音楽で鼠を集めて夢中になって感心しいる処を掩殺《えんさつ》させたとある。鼠や蜘蛛がそれほど音楽を好むかは知らぬが、列子やダーウィンが言い、米国のトローが実試した通り、もと諸動物は害心なき人を懼《おそ》れず、追い追い慣れて近づき遊ぶ。その内に物が心なくしてする事も、目が動けば酒食を得るとて呪し、燈に丁字頭《ちょうじがしら》が立つと銭を儲けるとて拝し、鵲《かささぎ》が噪《さわ》げば行人至るとて餌をやり、蜘蛛が集まれば百事|嘉《よろこ》ぶとてこれを放つ、瑞《ずい》は宝なり、信なり。天宝を以て信となし、人の徳に応ず。故に瑞応という。天命なければ宝信なし、力を以て取るべからざるなりと、陸賈《りくか》が樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》に語った通り(『西京雑記』三)、己れの力を量らずひたすら僥倖を冀《こいねが》うが人情だ。漢の魏豹、唐の李※[#「金+奇」、第3水準1−93−23]、いずれもその妻妾は天子に幸せられて天子を生み皇太后となった(『※[#「こざとへん+亥」、361−5]余叢考』四一)。文化十一年春、大阪北の新地の茶屋振舞へ、さる蔵屋敷の留守居が往った。その従僕茶屋の台所にいると、有名な妓女が来て二階へ上らんとして笄《こうがい》を落した。従僕拾うて渡すと芸子|憚《はばか》り様《さま》と言いざまその僕の手とともに握って戴き取った。田舎育ちの者かかる美女に手を握られた嬉しさ心魂に徹し、屋敷へ帰っても片時も忘れず。女郎と違い小金で芸子を受け出し得ず、人の花と詠《なが》めさせんよりはと無分別を起し、曾根崎の途中でその女を一刀に斬り殺し麦飯屋の簀《す》の子《こ》下に隠れたが、翌夕腹へって這い出で食を乞う所を召し捕られた(『伝奇作書』初篇上)。行き合いバッタリ、何処《どこ》の誰とも知らぬ者が笄を拾いくれた嬉しさに手を握ったのを、心あっての事と己惚《うぬぼ》れて大事を仕出かしたは、馬鹿気の骨頂たるようだが、妻妾が貴相ありと聞いて謀反したり、鼠が恩を報いるの、鼠を供養すれば大黒様が礼を授くるのと信ずるのも皆同様の己惚れで、力を以て取るべからざる物を取ろうとする愚かな事じゃ。
 大黒天の事は石橋臥波君の『宝船と七福神』てふ小冊に詳述されたから、今なるべく鼠に関する事どもとかの小冊に見えぬ事どもを述べよう。皆人の知るごとくこの神が始めて著われたのは、唐の義浄法師の『南海寄帰内法伝』に由る。義浄は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸享二年三十七歳でインドに往き在留二十五年で帰った時、奉仏兼大婬で高名な則天武后|親《みずか》ら上東門外に迎えたほどの傑僧で、『寄帰内法伝』は法師がかの地で目撃した所を記した、法螺《ほら》抜きの真実譚だ。石橋君の著にはその大黒様の所を抄出したままで誤字も多少あれば、今は本書から引こう。いわく、また西方諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて二、三尺の形を表わし神王となす。その状坐して金嚢を把《と》り、かえって小牀《しょうしょう》に踞《きょ》し、一脚地に垂《た》る。毎《つね》に油を以て拭《ぬぐ》い、黒色形を為《な》し、莫訶歌羅(マハーカーラ、大神王の義)という。すなわち大黒神なり。古代相承していわく、これ大天(ヒンズー教のシワ大神)の部属で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情に称《かな》う。ただ食時に至り厨家ごとに香火を薦《すす》むれば、あらゆる飲食《おんじき》随って前に列すと。すなわち大黒神は今もインドで大陽相を以て表わして盛んに崇拝するシワの眷属ながら、仏法を敬し、僧衆を護り、祈れば好いたものを授ける、台所で香火を供えて願えば、たちまち飲食を下さるというのだ。さてこの辺から義浄はただ聞いたままを記すという断わり書きがあって、かつて釈尊|大涅槃《だいねはん》処へ建てた大寺はいつも百余人の僧を食わせいたところ、不意に五百人押し掛けたので大いに困った。ところが寺男の老母がこんな事はいつもある、心配するなというたまま多く香火を燃し、盛んに祭食を陳列して大黒神に向い、仏涅槃の霊蹟を拝みに多勢の僧がやって参った、何卒《なにとぞ》十分に飲食させて不足のないようにと祈り、さて一同を坐せしめ、寺の常食を与うると食物が殖えて皆々食い足ったので、揃《そろ》うて大黒天神の力を称讃したとある。すこぶる怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家はいずれも信心厚く、行儀も良かったから、事に慣れた老婆の言を信じ切って、百人前の食物が五倍六倍に殖えた事と思い定めて、食って不足を感じなかったものだろう。寺の住職の妻を大黒というも専ら台所を司《つかさど》って大黒神同様僧どもに腹を減らさせないからで、頃日《けいじつ》『大毎』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に『梅花無尽蔵』三上を引いて、足利義尚将軍の時、既に僧の妻を大黒と呼んだと証した。いわく、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き、晨盤を侑《すす》む。その体《てい》蛮のごとし、
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