は餓えようとままよ、自分さえ旨ければよいと気が変ってつつき続けの食い続けをやり続けた。さては誰か予を尋ぬる者ありと悟って獏は跡を匿《かく》した。一向|埒《らち》明かずとあってカリブ人、また鼠を遣わすとこやつ小賢《こざか》しく立ち廻ってたちまち獏の居所を見付けたが、獏もさる者、鼠に向いわれと同類の汝がわが食物を得る場を垢《あか》の他人の人間に告げたって、人間ほど薄情な者なければ、トドの詰まりは狡兎《こうと》死して良狗《りょうく》煮らるだ。獏の所在は漠然分りませぬと人を誤魔化し置いて毎日ここへ来てシコ玉食う方が宜《よろ》しいと言うと、鼠たちまちその意に同じカリブ人を欺いて毎日食いに出懸けた。ところが一日鼠が食い余しの穀を口辺に付けたまま眠り居る処へカリブ人が行き遇わせ、揺り醒《さ》ましてかの樹の下へ案内させ、石の斧で数月掛かってその樹を伐り分け、毎人その一片を自分の畑へ栽《う》えてから銘々専食すべきカッサヴァ圃《ほ》が出来た(一八八三年板、イム・ターンの『ギアナ印甸人《インディアン》中生活記』三七九頁)。この鼠のやり方筒井順慶流儀で余り面白くないが、とにかく人に必要な食物の在処《ありか》を教えた功はある。
 濠州土人の婦女は食物袋に必ず鼠三疋は入れる。ニウカレドニア、ニュージーランドの土人、東アフリカのマンダンダ人、インドのワッダル人など鼠を常食する者が多い(スペンセルの『記載社会学』。ラッセルの『人類史』英訳二。バルフォールの『印度事彙』三板三巻)。一九〇六年板ワーナーの『英領中|阿非利加《アフリカ》土人』には好んで鼠を食うが婦女や奉牲者に食うを禁ずとあり。而してムベワてふ小鼠殊に旨いそうで、小児ら掘り捉え炙《あぶ》り食う四葉の写真を掲げ居る。リヴィングストーンの『南阿行記』十八章には、ムグラモチと小鼠のほか食うべき肉ない地を記す。ボスマンの『ギニア記』には、その地に猫より大きな野鼠ありて穀を損ずる事夥し、その肉すこぶる旨いが、鼠と知っては欧人が嫌うから、首足と尾を去って膳に上すと載す。一六七六年マドリット板、ナワレッテ師の『支那記』六四頁にこの宣教師支那で鼠を食う御相伴《おしょうばん》をして甚だ美味と評しある。本朝には別所長治の三木籠城や滝川益氏の高松籠城に牛馬鶏犬を食い、後には人まで食うたと聞くが、鼠を食うたと見えぬ(『播州御征伐之事』。『祖父物語』)。支那では漢
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