代には斧や槌が武威を示す第一の物だった遺風で、神威を斧や槌で表わす事となり、厨神大黒天もなかなか武備も抜かっておらぬという標《しる》しに槌を持たせたのが、後には財宝を打ち出す槌とのみ心得らるるに及んだと見える。『仏像図彙』に見る通り観音二十八部衆の満善車王も槌を持ち、日本でも叡山の鼠禿倉の本地毘沙門《ほんじびしゃもん》といい(『耀天記《ようてんき》』)、横尾明神は本地毘沙門で盗を顕《あら》わすために祝《いつ》き奉るという(『醍醐寺雑事記』)などその痕跡を留むる。
石橋君は大黒天に鼠はもとクベラ神像と混じたので、その像は金嚢その他の宝で飾った頭巾を戴き玉座に踞し傍に金嚢から財宝をまく侍者あり。後には侍者の代りに鼠鼬となった。日本の大黒が嚢を負い鼠を随えるはこれに因るという人ありと言われた。クベラすなわち毘沙門で、ヒンズー教の説に梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て梵天王に帰した。梵天王これを賞して不死を与え福神とした。『ラマヤナ』にしばしばクベラを金と富の神と称えあれど、後世インドで一向|持囃《もてはや》されず、その画も像も見及ばぬ(一九一三年板ウィルキンスの『印度鬼神誌』四〇一頁。アイテルの『梵漢語彙』一九三頁)。これに反しインド以北では大いに持囃して福神毘沙門と敬仰さる。ヒンズー教仏教ともにこの神を北方の守護神とし、支那には古く子《ね》は北方でその獣は鼠としたるに融合して、インド以北の国で始めて鼠をクベラすなわち毘沙門の使い物としたのだ。山岡俊明等このインド以北の支那学説とインド本土の経説の混淆《こんこう》地で作られた大乗諸経に見ゆるからとて、支那の十二支はインドから伝うなどいうも、インドに本《もと》五行の十二支のという事も、鼠を北方の獣とする事も、毘沙門の使とする事もない(『人類学雑誌』三四巻八号、拙文「四神と十二獣について」参看)。されば石橋君が聞き及んだクベラ像はインドの物でなくて、多少支那文化が及びいた中央アジア辺の物だろう。中央アジアに多少これを証すべき伝説なきにあらず。十二年前「猫一疋から大富となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ国(今のコーテン)王は毘沙門天の後胤《こういん》という。昔|匈奴《きょうど》この国に寇《こう》した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から甲冑から弓絃《ゆづる》まで、紐《ひも》や糸をことごとく鼠群が噛み断
前へ
次へ
全41ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング