古人が虫また鳥と思うたように、欧州の古書(エールスの旧伝『マビノギヨン』など)に鼠を爬虫と呼んだが多い。脚低く尾を曳《ひ》きて潜み走る体《てい》が犬猫牛馬よりもトカゲ、ヤモリなどに近いからの事で、支那には古く『爾雅』に毛を被った点から獣としてあれど、歴代の本草《ほんぞう》多くこれを虫魚の部に入れた。それを『本草綱目』始めて獣部に収めた。本邦でも足利氏の中世の編『下学集』には鼠は虫の総名と書いた。されば支那の虫焼きてふ虫は冬蟄する一切の虫やその卵を焼いたからの名だろうが、朝鮮同然鼠をも焼くつもりだったのだ。
貝原好古の『日本歳時記』一に「本朝古えの俗に、正月上子の日に出でて小松を引きて帰る事あり、忠見が歌に「子の日する野べに小松のなかりせば千代の例《ため》しに何を引かまし」、俊成《しゅんぜい》「君が代を野べに出でてぞ祝ひける、初子《はつね》の松の末を遥かに」、げに松は霜雪にも凋《しぼ》まず、千年をふる樹なれば春の初め祝事に野べに出でて取り帰りけるならし、按ずるに薫※[#「員+力」、第3水準1−14−71]《とうくん》『答問』に歳首松枝を折り、男は七、女は二、以て薬と為《な》してこれを飲むと侍れば、唐土にもかゝる事の侍るにや」。昔は子の日の御宴あり、『万葉集』に天平宝字二年春正月三日侍従、竪子《じゅし》、王臣等を召し玉帚《たまばはき》を賜い肆宴《しえん》せしむ、その時|大伴宿弥家持《おおとものすくねやかもち》が詠んだは「初春の初子《はつね》のけふの玉帚、手に取るからに動《ゆら》ぐ玉の緒」。『八雲御抄《やくもみしょう》』に曰く、初春の初子にかくすれば命ものぶるなり、『袖中抄』に曰く、この玉帚とは蓍《めどき》という草に子の日の小松を引き具して帚に作りて、田舎の家に正月初子に蚕飼する屋を帚初むる事云々。『朗詠』註に子の日の遊びとは正月初子に野に出でて遊ぶなり、子の日を賞するに仔細あり、子は北方なり、北洲の千年を象《かたど》る松によれば、人も千年の齢《よわい》を保つべきなり。『公事《くじ》根源』を見るに中朝この遊び盛んに、円融帝寛和元年二月十三日に行われたのは殊に振《ふる》った物だったらしく、幄《とばり》の屋を設け幔《まく》を引き廻らし、小庭と為《し》て小松をひしと植えられたりとある。『華実年浪草』一上に引いた『髄脳抄』には才媛|伊勢《いせ》が子の日の松を引き来ってその家に植
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