処を伽和羅《かわら》といい、屎一件の処を屎褌《くそばかま》という。今樟葉というは屎褌の誑《あやま》りだとあり。『播磨風土記』に神功《じんぐう》皇后韓国より還《かえ》り上りたもう時、舂米女《いなつきめ》等のくぼを陪従《おもとびと》婚《くな》ぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅《てがり》の丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦《すこも》と為《な》す故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。
内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者《かたえんなそんじゃ》空に騰《のぼ》って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)
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