ける。予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、阿漕《あこぎ》が浦の度重《たびかさ》なりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目が利《き》かないにもほどがあるといった。翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹は仇《あだ》し仇浪|浅妻船《あさづまぶね》の浅ましい世を乗せ渡る曲物《くせもの》とも分れば、かかる商売の女は男子を一瞥《いちべつ》して、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず。畢竟《ひっきょう》、後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳に異《かわ》りがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴――が迥《はる》かましとの断定、その頃来英中の現在文部大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこは破《わ》れ鍋にとじ蓋《ぶた》、ありそうなものと、三語の掾《じょう》にも比すべき短答。帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。他《かれ》十二分の標緻《きりょう》なしといえども持操貞確、案《つくえ》を挙げて眉に斉《ひと》しくした孟氏の女《むすめ》、髪を売って夫を資《たす》けた明智《あけち》の室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる。殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの琴瑟《きんしつ》和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由。昔|上杉憲実《うえすぎのりざね》|遯世《とんせい》して遠竄《えんざん》せしを、主人|持氏《もちうじ》を非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以て然《しか》りとなすと言った。熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置く。これを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。
 随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう。天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、万《よろず》の事物に守護の尊者を欠くなきに至った。ヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は麪包《パン》屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊者は悪縁の夫婦を冥加《みょうが》し、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻を虐《しいた》ぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物を露《あら》わし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)。されば事業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。
 就中《なかんずく》、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂あり。スコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮を主《つかさど》ったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり。豕も遊佚《ゆういつ》大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と見做《みな》すに及んだ。前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って食うからだろうと。グベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ・エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で麁悪《そあく》な物と詠《よ》ん
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