・蠍《さそり》・狼の諸形を現じて尊者の身が切れ切れになるまでさいなんだが、本人はロハで動物園を拝見したつもりで笑うて居るから埒《らち》が明かず。時に洞窟の上開いて霊光射下り諸鬼皆|※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《おし》となり、尊者の創《きず》ことごとく愈《い》えて洞天また閉じ合うたという。この時サタンが尊者を誘惑|擾乱《じょうらん》に力《つと》めたところが欧州名工の画題の最も高名な一つで、サルワトル・ロザ以下その考案に脳力を腎虚させた。
それからまた奇談といわば、アントニウス尊者|荒寥地《こうりょうち》に独棲苦行神を驚かすばかりなる間、一日天に声ありてアントニウスよ汝の行いはアレキサンドリヤの一|履《くつ》繕い師に及ばずと言う。尊者聞いてすなわち起《た》ち、杖に縋《すが》って彼所に往きその履工を訪うと、履工かかる聖人の光臨に逢うて誠に痛み入った。爾時《そのとき》尊者|面《おもて》を和らげ近く寄って、われに汝の暮し様を語れという。履工これは畏れ入ります、もとより手と足ばかりの貧乏人故何たる善根も施し得ませぬ。ただし朝起きるごとに自分の住み居る市内一同のため、分けては、遠きに及ぼすは近きよりすで、自宅近隣の人々と自分同然の貧しい友達の安全を祈ります。それが済んで仕事に懸り活計のために終日働きます。人を欺く事が大嫌いだから、一切の偽りを避け約束した言は一々履行します。かくして私は妻子とともに貧しくその日を送りながら、拙《つたな》い智慧の及ぶ限り妻子に上帝を畏敬すべく教えまする。このほかに、私の暮し様というものはありませんと語った。ラチマー曰く、この譚を聞いてまさに知るべし、上帝はそれぞれの職を勉め佯《いつわ》らず正しく暮す者を愛すと、アントニウスまことに大聖だったが、この貧乏至極な履工は、上帝の眼に、アントニウスと何の甲乙なかったと。以上は予往年大英博物館で読んだ一七一三年ロンドン板ホイストンの『三位一体と化身に関する古文集覧』および一八四五年版コルリーの『ラチマー法談集』より抄し置いたものに、得意の法螺を雑えたので、すべてベイコン卿の言の通り法螺の入らぬ文面は面白からぬ。しかしこれから法螺抜きでやる。
件《くだん》のアントニウス尊者は紀州の徳本《とくほん》上人同様、不文の農家の出身で苦行専念でやり当てた異常の人物だ。その値遇《ちぐう》の縁で出家専修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の厚聘《こうへい》を却《しりぞ》けてローマに拝趨《はいすう》せなんだり、素食《そしょく》手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋地を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだ。されば今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年版一巻二一七頁。チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)。
さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも希有《けう》に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に頒与《はんよ》し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を累《かさ》ねたが、修むるところ人為を出《いで》ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで兀々《こつこつ》と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に径庭《けいてい》少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に撒《ま》き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや。
そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を晒《さら》し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『維摩経《ゆいまぎょう》』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸|酒肆《しゅし》に入りては能《よ》くその志を立つとある。貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した。初め予ロンドンに著《つ》いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ人が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度|馴々《なれなれ》しく物言い懸
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