クマと称え体肥えて走る事遅し、狗※[#「けものへん+權のつくり」、306−2]は、駿河《するが》でアナホリと呼び体|痩《や》せて飛鳥のごとしと述べた。貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、味善くして野猪のごとしといった。和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる麻布《あざぶ》のマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス・アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない。日本に専ら産し支那の猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−7]と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−7]に当てたのだ。しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−8]に当て※[#「けものへん+完」、306−8]猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残り在《い》たのだ。氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ。而《しか》して蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一。『重訂本草啓蒙』四七。『大和本草』一六。『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二―五三頁。)
 また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが彼方《かなた》では非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五|乃至《ないし》五十五種ほど発見されいた。松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない。真のトルーフル中最も重要なはチュベール・メラノスポルム。これは円くて麁《あら》い疣《いぼ》を密生し、茶色または黒くその香オランダ苺《いちご》に似る。上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ず。イタリアでもっとも貴ばるるチュベール・マグナツムは疣なく、形ザッと蜜柑《みかん》の皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度に扁《ひら》めたようだ。色黄褐で香気は葱《ねぎ》と乾酪《チーズ》を雑《まじ》えたごとし。だから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す。前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀肉を用いたらそっちも歓《よろこ》びこちらも儲けると、今更気付いた人あって、足下《そっか》は当世の陶朱子房だから何分|播種《はしゅ》しくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。
 何故トルーフルがかく尊ばるるかというに、相も変らず古今を通じて浮世は色と酒で、この品殊に精力を増すから、旧《ふる》く嬌女神アフロジテの好物と崇められ諸国王者の珍羞たり。化学分析をやって見るに著しく燐を含めりとか。壮陽の説も丸啌《まるうそ》でないらしい。したがって尾閭禁ぜず滄海《そうかい》竭《つ》きた齶蠅《がくよう》連は更なり、いまだ二葉の若衆より※[#「囗<睛のつくり」、第3水準1−15−33]《かわや》に杖つくじいさんまでも、名を一戦の門に留めんと志す輩《やから》、皆争うてこれを求めたので、トルーフルを崇重する余りこれを神の子と称えた碩学《せきがく》すらある。これその強補の神効を讃えたに出づるはもちろんなれど、また一つはこの物土中に生ずるを不思議がる余り雷の産む所としたにもよる。支那でも地下にある多孔菌一種の未熟品を霹靂《へきれき》物を撃って精気の化する所と信じ雷丸雷矢すなわち雷の糞と名づけ、小児の百病を除き熱をさます名薬とした。ただし久しく服すれば人を陰痿《いんい》せしむとあるからトルーフルの正反対で、現今の様子ではこっちを奨励せにゃならぬかも知れぬ。(一八九二年パリ版、シャタン著『ラ・トルフ』。エングレルおよびプラントンの『植物自然分科』一輯一巻二八六―七頁。『大英百科全書』十一版二七巻三二二頁。『本草綱目』三七。ブラントーム
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