シガン州アンナボアに佐藤寅次郎氏と野原の一つ家に住み、自炊とは世を忍ぶ仮の名、毎度佐藤氏が拵《こしら》え置いた物を食って出歩く。厳冬の一夜佐藤氏は演説に出で、予一人二階の火も焚《た》かざる寒室に臥せ居ると、吹雪しきりに窓を撲《う》って限りなくすさまじ。一方の窓より異様の感じが起るので、少しく首を転じて寝ながら睹《み》ると、黒紋付の綿入れを着た男が抜刀を提《ひっさ》げて老爺を追うに、二人ながら手も足も動かさず、眉間尺《みけんじゃく》の画のごとく舞い上り舞い下りる。廻り燈籠《どうろう》の人物の影が、横に廻らず上下に旋《まわ》ったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて朦朧《もうろう》ながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた。地体《じたい》この宅従前住人絶え家賃すこぶる低廉なるは、日本で見た事もない化物屋敷だったのを世話した奴も不届《ふとどき》だが、佐藤は俺より早く宿ったから知っていそうなものと、誰彼を八ツ当りに恨みながら見れば見るほど舞って居るのは、本国の田舎芝居の与一と定九に相違ないので、雪降りの山崎街道も聞き及ばねば、竹田|出雲《いずも》が戯作の両人がふるアメリカへ乗り込む理窟もなしと追々勘付き出し、急に頭を擡《もた》ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち真闇《まっくら》で咫尺《しせき》を弁ぜず。色々捜して燈を点《とも》しよく視《み》ると、昼間鶏が二階のこの室に走り込んで突き破って逃げ飛んだ硝子《ガラス》窓の破処から、吹き込む雪|雑《まざ》りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が件《くだん》の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。
錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得た。こんな異常の精眼力には風中の雪の微分子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく良《よ》かった事は、一九一四年『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る。[#地から2字上げ](大正十二年四月、『太陽』二九ノ四)
3
前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も立たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享《じょうきょう》三年板『諸国心中女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男|易《やす》く赦してけり」とある。英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろう。それを低頭して哀れを乞うものと見て件《くだん》の諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシ。どちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。
ついでにいう。『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるを屠《ほふ》るを見る。毛白くして淡赤なり。奇《あや》しく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや。曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す。普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に※[#「けものへん+完」、305−13]猪カモシシと出す。※[#「けものへん+完」、305−13]字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかし完《かん》と※[#「けものへん+權のつくり」、305−14]《かん》と同音故、※[#「けものへん+權のつくり」、305−14]の字を※[#「けものへん+完」、305−14]と書いたと見える。郭璞《かくはく》の『爾雅』註に猯と※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]を一物とす。李時珍は、猯は後世の猪※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]、※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]は後世の狗※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]で、二種相似て異なりと説いた。モレンドルフ説に、猪※[#「けものへん+權のつくり」、305−16]はメレス・レプトリンキュス、狗※[#「けものへん+權のつくり」、305−16]はメレス・レウコレムス。小野蘭山は、猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−1]すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワ
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