傷つくべき牙と、自ら身を衛《まも》るべき楯を持つ。しばしば肩と脇を樹に摺り堅めて楯とすると載せ、一五七六年ロンドン版、ジェラード・レーの『武装事記』には、野猪闘わんと決心したら、左の脇を、半日間※[#「木+解」、第3水準1−86−22]樹に摺り付け堅めて、敵の牙の立たぬようにするとある由(一九二〇年、『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二三八頁、クレメンツ氏説)。故に、彼方《かなた》の紋章を画くに、多くは材木を添えある。
ついでにいう。享保三年板|西沢一風《にしざわいっぷう》作『乱脛三本鑓《みだれはぎさんぼんやり》』六に、小鼓打ち水島小八郎、恩人に頼まれた留守中その妻を犯さんとして遂げず、丹波の猪野日村に旧知鷹安鷲太郎を尋ねる。鷲太郎山より帰り小八郎を見て、京へ登りしよりこの方《かた》文一本くれぬ不届者《ふとどきもの》、面談せば存分いいて面の皮を剥《は》ぐべしと思いしが、向うししには矢も立たず、門脇の姥《うば》にも用というを知らぬ人でもなし、のふずも大方直る年、まず何として来るぞと問う。アラビヤ人の常諺に、信を守る義士は雄鶏の勇、牝鶏の察、獅子の心、狐の狡、※[#「けものへん+胃」、第4水準2−80−43]《はりねずみ》の慎、狼の捷、犬の諦《あきら》め、ナグイルの貌《かたち》と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬといったごとく、断じて行えば鬼神もこれを避くで、突き到る野猪の面には矢も立たぬという意かと思うたが、それでは通じない例が多いようだ。最近に、享保十八年板『商人軍配団』四を見ると、向う猪に矢が立たぬとて、直ちに歎かば、鬼のような物も、心の角《つの》を折るものなりとありて、原意は、ともかく、当時専ら謬《あやま》り入って来る者を、強いて苦しめる事はならぬという喩《たと》えに用いたと見える。昔の諺を解するは随分むつかしい。
エストニヤの譚に、王子豕肉を食うて鳥類の語を解く力を獲《え》、シシリアの譚は、ザファラナ女、豕の髭三本を火に投じてその老夫たる王子を若返らせ、露国の談に、狼が豕の子を啖わんと望むとその父われまず子を洗い伴れ来るべしとて、狼を橋の下の水なき河中に俟《ま》たしめ、水を流してほとんど狼を殺す事あり。さればアリストテレスは、豕を狼の敵手と評し、ギリシャの小説にこの類の話数あり(グベルナチス『動物譚原』二巻一一頁)。猪の美質を挙げた例このほか乏しからず。貝原益軒は、猫は至って不仁の獣なるも他の猫の孤児を乳養するは天性の一長と称讃したが(『大和本草』一六)、『後周書』に、陸逞|京兆尹《けいちょうのいん》たりし時都界の豕数子を生み、旬を経て死す。その家また豕ありてこれを乳養して活かしたといい、『球陽』一三に、尚敬王の時田名村の一母猪子を生み八日後死んだが、その同胞の牝猪孕めるがその小豚を乳育す。いくばくならず自分も子を生んだが一斉に哺養《ほよう》したと記す。気を付けたらしばしば例あるかも知れぬ。
古スパルタ人は万事軍隊式で、豕までも教練厳しく行われその動作乱れず、鈴音に由って整然進退したとマハッフィの一著書で読んだが今その名を記憶せぬ。ジョンソン博士は見せ物に出た犬や馬の所作をことごとく似せたいわゆる学んだ豕を評して、豕の普通に愚鈍らしきは豕が人に反《そむ》けるにあらず、人が豕に反けるなり。人は豕を教育する時日を費やさず、齢一歳に及べば屠殺するから、智能の熟するはずがないと言った(ボスエルの『ジョンソン伝』七十五歳の条)。かつて野猪を幼時から育てた人の直話に、この物|稠人《ちゅうじん》中によく主人を見出し、突然鼻もて腰を突きに来るに閉口した。絆《きずな》を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと。予が現に畜《か》う雄鶏は毎朝予を見れば啄《つつ》きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは唾《つば》を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを礼法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を咎《とが》むべきでない。唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器用を壌《やぶ》り、椀缶《わんふ》を銜《ふく》んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が毎《つね》に人の所為を見てその真似をしたのであろう。
仏人が、トルーフル菌を地下から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見える。ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう。人間にも一つの感覚で識《し》るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。
三十三年前、予米国ミ
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