も立派な男子の証拠儼然たり。妻を呼び燈を執り詰《なじ》ってその実を知り、告発せんにも余り可愛らしい。ついに取って押えてこれを宮し、創《きず》を療じた後、これ我が表姪王二姐とて、生まれ付いた無性人で夫に逐《お》われたとこの頃知ったから妻の伴とし置くと称し、昼は下女同然に賄《まかな》わせ使い、夜はすなわち狎処《こうしょ》した。間もなく桑※[#「栩のつくり+中」、332−8]伏誅しその徒皆|棄市《きし》された時二喜のみ免れた。探索厳しいから村人多く疑う。由って老婆連を集め見せるに全く無性人と判った。王二喜ここに至って馬生を徳とし、その為《な》すままに身を任せて一生を終り、死して馬氏の墓側に葬られた。支那では余り希有《けう》な事でないらしく、おどけ半分に異史氏が評して馬万宝善く人を用ゆる者というべし。児童|蟹《かに》を面白がるが鉗《はさみ》が畏《おそ》ろしい。因って鉗を断ちて飼う。万宝もこんな美人をそのまま置いては留守に家を乱さるるからこれを宮して謀反の道を断って思うままに翫《もてあそ》んだのだ。ああいやしくもこの意を得ば以て天下を治むるも可なりといった(「鳥を食うて王に成った話」参照)。桑※[#「栩のつくり+中」、332−15]が事は『明史』にも具載され大騒動だったのだ。
それよりも古く宋の時男色を営業する者多く、政和中法を立て、男子を捕え娼と為すを告げれば賞銭五十貫、罪人は杖一百と定めた。南渡の後呉俗もっとも盛んで、皆脂粉を傅《つ》け盛んに粧飾し、針縫を善くし、呼んでいう皆婦人のごとし。その首たる者を、師巫行頭と号す。およそ官府に不男の訟あらばすなわち呼んでこれを験せしむ。風俗を敗壊するこれより甚だしきはなし(『※[#「こざとへん+亥」、333−4]余叢考』四二)。また古く『漢武故事』に、初め武帝太子たりし時、伯母大長公主その女陳阿嬌を指《さ》し好否を問う。帝曰く、もし阿嬌を得ばまさに金屋《きんおく》を以てこれを貯うべしと。公主大いに喜びすなわち帝に配す。これを陳皇后という。後《のち》皇后寵ついに衰え驕恣《きょうし》ますます甚だし、女巫楚服なる者自ら言う、術あり能《よ》く上の意を回《かえ》らしむと。昼夜祭祀し薬を合せて服せしむ。巫男子の衣を著け冠※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]《かんさく》帯素し皇后と寝居し相愛夫婦のごとし、上聞いて侍御を究治す。巫后と妖蠱《
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