処を伽和羅《かわら》といい、屎一件の処を屎褌《くそばかま》という。今樟葉というは屎褌の誑《あやま》りだとあり。『播磨風土記』に神功《じんぐう》皇后韓国より還《かえ》り上りたもう時、舂米女《いなつきめ》等のくぼを陪従《おもとびと》婚《くな》ぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅《てがり》の丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦《すこも》と為《な》す故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。
 内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者《かたえんなそんじゃ》空に騰《のぼ》って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)。今一つ豕に因んだ例を挙げんに、ホーンの『テーブル・ブック』一八六四年版一九〇頁にいわく、数年前エールス人ダヴッド・ロイドが、ヒャーフォードで、六脚ある牝豕をその一膳飯店に飼ったからたまらない。見物かたがた飲食に出掛ける人|引《ひき》も切らずと来た。ところが、ダヴッドの妻、怪しかる飲んだくれでしばしばなぐっても悛《あらた》まる気遣いなし。一日例のごとく聞《きこ》し召し過ぎ、例の打擲《ちょうちゃく》がうるさいから檻《おり》の戸を開けて六脚の豕を出してその跡に治まり返る。折節《おりふし》一群の顧客噂に高い奇畜を見に来り、ダヴッド大恐悦の余り何の気も付かず欄辺に案内し、皆さんこれまでこんな活き物を御覧にならないでしょうというと、かみさんが大の字になってグウグウと高鼾《たかいびき》の体《てい》、観者の内の一百姓「ホンに貴公のこの牝豕ほど酔うたのは生来一度も見ない」といった。それからダヴッドの牝豕ほどずぶ酔いてふ俚言が起ったと。これも何だか跡から牽強《けんきょう》のよう想《おも》わる。
 馬琴の『蓑笠両談』二に、丸山応挙に臥猪《ふしい》の画を乞う者あり。応挙いまだ野猪の臥したるを見ず心にこれを想
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