い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景清見て、我を源氏の方へ訴えて捕えんとするにやと心得、大刀抜き大日を切り殺しける(『梅村載筆』八巻)。
『摂陽群談』四、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る。伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温麦の打ち手というを聞き誤って、伯父の心替りと思い取って、忍んで入道を害し、寺を去り、この池に血刀を注ぐ。後またその訛《あやま》りを知って池水を手向け霊魂を弔う。因って景清涙池と称すると伝うる所なりとありて、この池はもと西行の「よし去らば、涙の池に身をなして、心のまゝに月宿るらん」などいう歌の名所なるに添えてかかる話を作り加えただろうといい居る。『塩尻』五四にも『載筆』と同話を出し、この事出処なお尋ぬべしとあるが、どうも曹操が刀を磨ぐ音と縛り殺せという声を誤解して呂氏の一家を殺した話から出たものでただ日本に畜類を縛して家内で殺す風と源平の頃豕がなかったから、単に酒を買いに出たのを密告に往ったと疑うての殺害と作ったり、麦条を打てといったのを己《おの》れを討つ企てと誤解して伯父を殺したと作り替えたと知らる。
 予、大学予備門で習うた誰か英米人の読本にも類話があったが忘れしまった。その時講師たりし松下文吉という先生がこの話は日本の馬琴の逸話と同類だといわれただけ記憶する。それは何に拠ったか知らぬが、当時大いに売れた菊池三渓《きくちさんけい》の『本朝|虞初《ぐしょ》新誌』中巻に出でいた。馬琴が壮時一室に籠って小説を考案中、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今夜きっと下女を絞殺して、衣類を取り、屍体を井に投じて罪跡を隠そう、旨い旨いと独語して筆を措《お》いて微笑した。下女心配で堪《たま》らず、その昏《くれ》に跣《はだし》で逃げ帰り、その父兄|愕《おどろ》いて暇《いとま》を乞いに来たので馬琴不思議に思い、色々聞き糺《ただ》すと右次第、全く小説の妙趣向が浮かんだ欣喜の余りに出た独り言にほかならずと分り、大笑いで済んだとある。
[#地から2字上げ](大正十二年六月、『太陽』二九ノ七)

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 英国でボグス・ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり。以前その地の住民|怪《け》しからず粗暴|野鄙《やひ》だったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカ
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