で、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公の臍《へそ》に茶を沸かしめて語った由。
『通俗三国志』に曹操《そうそう》董卓《とうたく》を刺さんとして成らず。故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようと。すなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜やや更《ふ》けて屋後に刀を磨《と》ぐ音す。曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも覚束《おぼつか》なし。われらを生け取って恩賞を貪《むさぼ》るのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまず。さて二、三人の声して縛り殺せというた。さてこそ疑いなし、此方《こなた》より斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を鏖殺《おうさつ》して台所の傍を見れば生きた豕を繋《つな》ぎいた。陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて無辜《むこ》を殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二里ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人の忙《いそ》ぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した。陳宮先に錯《あやま》って殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁を悪《にく》み、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日|呂布《りょふ》の参謀となって曹操に殺されたとある。この話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし。
さてこの曹操呂伯奢を殺した譚に似たものが本邦にもある。いわく、大日《だいにち》という僧入宋して仏照徳光に参す。この大日は悪七兵衛景清が伯父なり。景清戦い負けて大日が所へ来る。大日|窃《ひそ》かに侍者を呼んで言いけるは景清見参疲れたり、酒を買
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