修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の厚聘《こうへい》を却《しりぞ》けてローマに拝趨《はいすう》せなんだり、素食《そしょく》手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋地を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだ。されば今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年版一巻二一七頁。チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)。
 さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも希有《けう》に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に頒与《はんよ》し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を累《かさ》ねたが、修むるところ人為を出《いで》ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで兀々《こつこつ》と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に径庭《けいてい》少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に撒《ま》き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや。
 そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を晒《さら》し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『維摩経《ゆいまぎょう》』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸|酒肆《しゅし》に入りては能《よ》くその志を立つとある。貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した。初め予ロンドンに著《つ》いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ人が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度|馴々《なれなれ》しく物言い懸
前へ 次へ
全45ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング