んむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]《ほき》内伝』二にいわく、亥は猪なり云々。この日城攻め合戦剛猛の事に吉《よ》し、惣《そう》じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇に因んだものだ。しかるに『暦林問答』には亥日柱を立てず(書にいう、災火起るなり)、嫁娶せず、移徒せず、遠行せず、凶事を成すとあるは何故と解き得ぬ。日本でも野猪の勇者あるをいうが、共同の力強きを言わぬは、日本の野猪にはその稟賦《ひんぷ》を欠くか、または狩り取る事夥しくて共同しょうほど数が多からぬか、予は弁じ得ぬ。インドの野猪は日本や欧州のと別種だが、やはり共同して勇戦すると見え、カウル英訳『仏本生譚《ジャータカ》』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子が成長して野に還り、野猪どもに共同勇戦の強力なるを説いて教練し、猛虎を殺し、またその虎をして毎《つね》に野猪を取り来らしめて、分ち食うた仙人をも害した物語を出して居る。
慶長頃本邦に家猪があった事は既述した通りだが、更に寺石正路君の『南国遺事』九一頁を見ると、慶長元年九月二十八日土佐国浦戸港にマニラよりメキシコに通う商船漂着し、修理おわって帰国に際し米五百石、豚百頭、鶏千疋を望みしに対し、豊太閤、増田長盛をして米千石、豚二百頭、鶏二千疋等を賜わらしめ、船人大悦びで帰国したとある。この豚二百頭は無論日本で飼いいたものに相違ない。それから『長崎虫眼鏡』下に、元禄五年の春より唐人オランダのほかは豕鶏等食する事を停めらるとあれば、それ以前開港地では邦人も外客に倣《なろ》うて豕を食ったのだ。また足利氏の世に成った『簾中抄』に孕女の忌むべき物を列ねた中に、鯉と野猪あり。この二物乳多からしむと『本草』に見ゆるにこれを忌んだは、宗教上の制禁でもあろうか。
また、既に書いた通り猪類皆好んで蛇を食う。それについて珍譚がある。定家卿の『明月記』建仁二年五月四日の条に「〈近日しきりに神泉苑に幸《みゆき》す、その中|※[#「彑/(比<矢)」、294−15]猟《ていりょう》致さるるの間、生ける猪を取るなり、仍《よ》りて池苑を掘り多くの蛇を食す、年々池辺の蛇の棲を荒らすなり、今かくのごとし、神竜の心如何、もっとも恐るべきものか、俗に呼びていわく、この事に依り炎旱《えんかん》云々〉」。天長元年旱災の際、弘法大師天竺無熱池の善如竜王
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