を奉ずる事盛んにその派の坊主多くあり、殊にヴェニスはその葬処とて大寺堂を建てて祀った。その像は巡礼の衣を著し腿《もも》に黒死病の瘢《きずあと》を帯び、麪包を啣えた犬を従えたものだ。またその犬の生処という事で、葡領アズルズ島に犬寺が建てられた(『大英百科全書』二三巻四二五頁。『ノーツ・エンド・キーリス』九輯十二巻一八九頁)。
『淵鑑類函』四三六には、宋の太宗の愛犬、帝朝に坐するごとに必ずまず尾を掉《ふ》って吠えて人を静めた。帝病むに及びこの犬食せず、崩ずるに及び号呼|涕泗《ていし》して疲瘠《ひせき》す。真宗|嗣《つ》ぎ立て即位式に先導せしむると鳴吠《めいはい》徘徊して意忍びざるがごとし、先帝の葬式に従えと諭《さと》せば悦んで尾を揺るがし故《もと》のごとく飲食す。詔《みことのり》して大鉄籠に絹の蒲団を施して載せ行列に参ぜしめ見る者皆落涙す。後《のち》先帝を慕うの余り死んだので、詔して敝蓋《へいがい》を以てその陵側に葬ったとあり。また、孫中舎という者青州城に囲まれ内外隔絶、挙族愁歎した時、その犬の背に布嚢と書簡を付け水門を潜らせ出すと、犬その別墅《べっしょ》に至り吠ゆる声を聞きて留守番が書簡を取り読み米を負うて還らしむ。数月かくし続けて主人一族を餓えざらしめた。数年後|斃《たお》れて別墅の南に葬られ、中舎の孫が石を刻してその墓を表わし霊犬誌といったとある。
 インドのマラバル海岸のクイーロン港口の築地に石碑あり。ゴルドン大佐てふ英人この辺の湖で泳ぎいると犬吠えてやまず。気を付けて視ると、湖の底に大きな物が徐《しず》かに自分の方へ近づき来り、その水上に小波《さざなみ》立つ。さては※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《わに》の襲来と悟ると同時に犬水中に飛び入り食われて死んだ。いくら吠えても主人が悟らぬ故自ら身代りに立ったと知り、哀悼の余りこの碑を立てた。この大佐は一八三四年ボンベイで死んだとあるから余り古い事でない。またデルフトに、蘭王ウィルヘルム一世の碑ありてその愛犬像を碑下に置く。これは一五七二年スペインより刺客来て天幕中に臥した王を殺しに掛かった時、その蒲団を咬み裂き吠えて変を告げ、難に及ばしめなんだ大功あるものと伝えられる(『ノーツ・エンド・キーリス』十一輯四巻四九頁、同三巻四一頁)。
 欧州で、死人の墓碑に犬の像を具する例甚だ多いが、必ずしも皆その人に忠誠を尽したものとは限らぬ。他の諸禽獣の例も多くそれぞれ道義上の意味を表わしたもので、例せば獅は勇猛、犬は忠誠の印しだ。またその人の家紋そのまま禽獣を墓碑に添えたのも多い(同誌十一輯三巻三一〇頁参照)。かかる表示から生じた忠犬の話も少なくあるまい。わが邦にも南部家の鶴など実際その家に奇瑞あった禽獣を紋としたものも少なからぬが、また『見聞諸家紋』に見えた諏訪氏の獅子のごとく、かつてわが邦に実在せぬものを用いたのもある。紋章の多くはトテムの信念に起る。犬をトテムとしたもの、欧州に少なからず。アイルランドの名門メクチュレーンはクレーンの犬の意味で、この一族は犬肉を喫《く》えば死んだという(一九〇八年版ゴムの『歴史科学としての俚俗学』二八六頁)。ただし犬をトテムと奉じたは犬の忠誠に感じての例多かったはずなれば、忠犬の話は深い基礎あった事言うを俟《ま》たず。中世武士が軍陣に犬とともに臥して寇敵を予防する風盛んに、その後婦女が犬を寵愛する事普通になりしより、犬が殊に墓碑に刻まるるに至ったので、スペインブールホスの大寺にあるメンシア・デ・メンドザ女の葬所なる臥像はその裙《すそ》に狆《ちん》を巻き付かせある。これは何たる奇功も建てずただこの貴婦が特に狆好きだった印しばかりだ。漢の淮南《えなん》王劉安、神仙八人とともに薬を服して天に上った時、その余りを舐めた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]犬もことごとく昇天し、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]は天上に鳴き、犬は雲中に吠えた(『神仙伝』四)。その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時|京兆《けいちょう》の人なり。長斎して道法を奉ず、かつて黒犬を携え烏竜と名づく、世|謂《い》いて薬王と為《な》すという。韓忠献臆すらく、年六、七歳の時|病《やまい》甚だし、たちまち口を張りて服薬する状のごとくして曰く、道士あり、犬を牽き薬を以て我に飼う、俄に汗して愈《い》ゆと、因って像を書いてこれを祀ると(『琅※[#「王+邪」、第3水準1−88−2]代酔編《ろうやだいすいへん》』五)。これも主人に伴れて黒犬も祀られたらしい。
 英国のジョー・ミラーは、一六八四年生まれ一七三八年歿した役者で滑稽に富んだ。一七三九年ジョン・モットレイその奇言警句に古今の笑話を加え、『ジョー・ミラー滑稽集』一名『頓智家必携』を著わした。それより古臭い滑稽談を単に、ジョー・ミラーと通称する事、わが国の曾呂利咄《そろりばな》しのごとし。ロンドンのウェストミンスター・アッベイは、熊楠知人で詩名兼ねて濫行の聞え高かったジーン・ハーフッドその坊に棲み、毎度飲ませてもらいに往った。英国に光彩を添えた文武の偉人をこの寺に葬り、その像を立てた。その間を夕方歩むと、真に欽仰畏敬《きんぎょういけい》の念を生じた。件《くだん》の『必携』十頁に、ある卑人その家名に誇ってわが父の像|彼処《かしこ》に立てられたというので念入れて尋ぬると、タイン侯乗車の像が立てられ、わが父は馬車の御者だったから従ってその像もあるのだと答えたので、聞いた者が呆《あき》れたと見ゆ。あまたの犬どもが主人の碑にその像を刻まるるもまずはこの格で、ことごとく格別の忠勤を尽したでもなく、若い時、桐野利秋《きりのとしあき》に囲われた妾とか、乃木将軍にツリ銭を貰《もろ》うた草鞋《わらじ》売りとか、喋々すると同様、卑劣めいた咄だ。
 かの薬王が烏竜てふ黒犬を従え歩いたに付けて言うは、欧州では、古く魔は黒犬や老猫形を現ずると信じ、ウィエルスは魔が人を犯す時、黒犬の腸《はらわた》と血をその室の壁に塗ればたちまち去ってまた来らずと言った。これは、血蝮に咬まれた者蝮の肉を創《きず》に付くれば速やかに治すというごとく、毒を以て毒を退治るのだ。このウィエルスが師事したドイツのアグリッパは、十六世紀に名高い医者兼哲学者で著述も多かったが、所説が時世に違い容れられず、一汎《いっぱん》に魔法家と擯斥《ひんせき》されて陋巷に窮死した。常に一黒犬を従えたがこれが魔の化けたので、この人死に臨み呪法で禁じ置いた黒犬の頸環を解き、去れ、汝、わが一生を過《あやま》たしめたと言うと、犬脱走して河に入りて再び現われなんだとも、魔が、汝、死んでも必ず蘇らせてやると誓うたので自殺すると、魔、嘲《あざわら》って取り合わなんだので死に切れたともいう。ヴェニス人プラガジニは有名な方士で、魔の力を借りて黄金を作り出すと誇り、一五九五年バイエルンで刑せらる。同時にその常に伴うた二黒犬は魔が化けたのだとて、犬を人同様裁判の上衆民の見る所で弩《ど》を以て射殺した(コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』)。
 東洋には『淵鑑類函』四三六に、康定中侍禁李貴西辺の塞主たり、その妻賊のために※[#「てへん+虜」の「田」に代えて「田の真ん中の横棒が横につきぬけたもの」、第3水準1−85−1]《よこど》り去らる。家中の一白犬すこぶるよく馴《な》る。妻これに向って我聞く、犬の白きは前世人たりしと、汝|能《よ》く我を送り帰さんかと、犬|俯仰《ふぎょう》して命を聴くごとし、すなわち糧を包みこれに随う。警あればすなわち引きて草間に伏し、渇すればすなわち身を濡《ぬ》らして返り飲ましむ。およそ六、七日で賊境を出で、その夫|恙《つつが》なきに会う。朝廷崇信県君に封ずとあるは犬が封号を得たらしい。また唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日|櫪中《れきちゅう》で汗かき喘《あえ》ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒《ぎょそつ》が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼《ほ》え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍《くら》を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。圉人驚異したが敢えて洩《も》らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅《かや》の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋《つな》ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。暫くして黒衣の人を褐衣《かつい》の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣《つ》く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童《ちどう》は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣《う》つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭《むちう》ち殺し、その肉を煮て家僮《かどう》に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発《あば》くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。
『日本紀』七に、日本武尊信濃の山中で山神の化けた白鹿に苦しめられたが、蒜《ひる》を以てこれを殺し、道を失うて困《くる》しむ時白犬に導かれて美濃に出《い》づ、とあれば、同じ白でも鹿は悪く犬は善いと見える。しかるに巻十四に、播磨の賊|文石小麿《あやしのおまろ》馬の大きさの白犬に化けて官軍に抗したのを春日《かすが》の小野臣大樹《おののおみおおき》が斬りおわると、もとの小麿となったとあれば、白犬も吉兆と限らなんだのだ。後世に至っては、白犬は多く仏縁ありまた吉祥のものとされて居る。例せば道長公が道満法師に詛《のろ》われた時、白犬が吠えたり引いたりして公が厭物を埋めた地を踏むを止めた(『東斎随筆』鳥獣類)。関山派の長老の夢に久しく飼った白犬告げて、われ門前の者の子に生まれるから弟子にされよと、やがてそのごとく生まれ、貧女故捨てんとするを乞うて弟子としたが、長じて正直者ながら経を誦《よ》む事鈍かった(『因果物語』中)。和泉堺のある寺の白犬|勤行《ごんぎょう》の時堂の縁に来て平伏したが餅を咽《のど》に詰めて死し、夢に念仏の功力《くりき》で門番人の子に生まると告げ果して生まる。和尚夢を告げて出家さするに一を聞いて十を知ったが生来餅を嫌う、因って白犬と呼ばるるを忌み、十三の時強いて餅に向うたがたちまち座を外《はず》して見えずと(『諸国里人談』五)。『中阿含経』に白狗が前世にわが児たりし者の家に生まれ、先身の時|蔵《かく》し置いた財宝を掘り出す話あり。その他類似の談が仏典に多いから、伝えて日本にもそんな物語が輩出したのだ。ただし『今昔物語』十一や『弘法大師|行化記《ぎょうけき》』に、大師初めて南山に向った時、二黒犬を随えた猟人から唐で擲《な》げた三|鈷《こ》の行き先を教えられたとあり、この黒犬が大師を嚮導《きょうどう》したらしいから、本邦では黒犬を凶物とせなんだらしい。
 白犬と明記されぬが、犬が人に生まれた譚は仏経に多い。『賢愚因縁経』五に、仏が給孤独園《ぎっこどくおん》にあった時、園中五百の乞児あり、仏に出家を乞うて許され、すなわち無漏の羅漢となる、祇陀《ぎだ》太子、仏と衆僧を請じてこれら乞食上りの比丘を請せず、仏乞食上りの輩に向い太子汝らを請せず、汝ら鬱単越洲《うったんのっしゅう》に往き自然成熟の粳米《こうまい》を取って食えと。鬱単越(梵語ウッタラクルの音訳)は天下勝の義でまた勝処また勝生と訳し、アイテルの『梵漢語彙』には高上と訳しある。須弥《しゅみ》四洲のうち最も勝《すぐ》れて結構な処の意で、もと婆羅門教で諸神諸聖の住処
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